昼下がりのコーヒーブレイク 「宇宙の理」 2007年1月号
超越編 3(心洗いへの道)
心洗いへの道
憎しみの心、咎めの心、ねたむ心、いらいらする心などという、怒りに繋がる心があります。これを御法度の心と言います。これはすべて理性を失い、人間を不幸に導く心です。ですから本来はこのような心は出さないようにしなければなりません。
とは言え、こういう心のあり方それ自体を心から取り除いたり変えたりということは簡単にできることではありません。まず、一生のうちでひとつでもできたら、その転生は大成功であったといえるでしょう。
生まれたときの心にしても、子供の頃は純粋無垢で欲がないとよく言われますが、それはまだきっかけが少なく、御法度の心に火が引火していないだけです。魂は純粋に霊的な存在でも、心は肉体の遺伝子と大きく関係していて、両親の心、先祖の心、民族などの集合意識というものを受け継ぎます。血液型で人の性格がある程度計れるのも遺伝ということです。
この心の気質は自我の芽生えとともに形を強く現しますが、短気な人は、だいたい生まれたときから短気で、死ぬまで短気です。生まれながらに臆病な人も死ぬまで臆病で、神経質な人も死ぬまで神経質です。
こういう心は遺伝的に親や祖先から貰ったり、継承していたりして繋がっていたりするもので、そんな簡単に取り除くということはできるものではないのです。つまり御法度の気質を、外科手術をするみたいに摘出することはまずできないのです。つまり御法度はなかなか捨てられないのです。ですから、御法度の心を捨てられないと嘆くことは止めましょう。御法度の心を起こさないようにするなどということは、本当はそんな簡単にできることではありません。
なかなか心が洗えないとお悩みの方、ちょっと視点を変えてみましょう。****************************** 御法度の本当の原因
「え! じゃあ、御法度の心を出さないように努力することは意味が無いじゃないのか?」って・・・
いやいや、そんなことはないでしょう。良く反省して心洗を継続していけば御法度は段々と出にくくなることは請け合いです。私はここで、意識の持ち方を言っているに過ぎないのです。
自分の心の中に御法度を見つけたとき、御法度だけを見ながらそれを抑え込むという作業に走るのではなくて、御法度の心と本当の自分である愛の心が並存していて、御法度に邪魔されない強い愛の心があるというイメージを持っていただきたいのです。御法度が起きるのはその器が小さいからで、器を育てる努力をするべきですが、御法度の心を抑えるだけでは器は広がらないのです。
御法度を発しそうになったときにそんな愛の心で包んでしまうのが理想ですが(抑えることと包むことは異なる)、だいたいが御法度発生後に次回からは何とか抑えられないかと思ってしまうのです。
しかし当たり前です。誰だってこの星の人は愛の器が小さく、御法度に負けてしまうのが普通なのです。そうでなければ地球には生まれていません。御法度発生後でいっこうに差し支えないと思います。むしろ御法度発生後によく反省し感謝の心に変えていくことの方が大切なのです。
御法度の心を起こしているときは、相手が悪くて自分には落ち度がない、と思っている場合です。そして他人と自分との繋がりの認識が薄い場合です。
「*菩薩下座の行(下記参照)」を聞いている人は、「そんなことは分かっていますよ」と言われそうですが、本来は御法度が起きる原因は相手ではなくて、その種(たね)を持っている自分です。相手はこの種に働きかけて御法度を起こすきっかけを作ってくれたに過ぎません。
辛く悲しいのは、腹を立てる現象を起こした相手ではなくて、主役として腹を立てている自分なのです。脇役の相手は(悲しくも)ケロッとしている場合が多いものです。そしてこの現象は自分を主役とした自分の宇宙の舞台の中で、共同創造として創り出されています。だから御法度の心に火をつけてくれた人に感謝です。
愛はすべてを超越している
愛こそがすべて
御法度を起こしっぱなしにしておくと、もちろん成長はしないのですが、起こしたときにすべての自分にまつわる御法度現象は自分と他との共同創造で起きていることに気づくと、終極的には自分と他との「差」というものは役割以外のなにものでもない、ということに気づいていくでしょう。
この自分と他との一体感、つまり愛の心を育むことで「全てに勝る愛」の本領発揮となるのです。つまり「愛による、【分離の超越】」が実現します。やはり最後は愛≠ネのです。存在する絶対意識は愛だけで、御法度は絶対意識ではありません。本来「愛こそがすべて」であり、すべてを超越した唯一絶対の意識なのです。
超越への近道
つまり超越への近道とは、御法度の心を起こしてもそれを元に感謝と反省を繰り返し、自分と他との関係の真実(一体)に気づいていくことです。それが愛の心を育んでいくこととなるでしょう。
「菩薩下座の行」こそが超越≠ヨの近道です。
反省と感謝の心が大切であるというのは、この意識がないと自他一体の感受性もなかなか働かず、結局は愛の本質に近づくことができないからです。
御法度が起きそうになったら意識的に光を当てるとかいろいろと方法はあるものの、御法度をただ上から抑え込むだけでは、本来、御法度を利用した正しい成長に繋がっていかないのです。御法度の心を抑えていることで生まれた鬱積と共にただそこに留めているに過ぎません。
有難う
御法度も自分の成長のハードルであると思えばこそ、御法度に感謝して、もっと御法度を楽しみましょう。
「有難う」という感謝の言葉は「難が有る」と書きますが、これは「難(ハードル)」があるからこそ私たちは成長するということを意味しています。本来、苦難に立ったときこそ感謝・有難うで、「成長の元を与えてくれて感謝します」なのです。御法度もまったく同じです。御法度を起こしてしまったら、またひとつ成長する自分の環境が与えられたと思って有り難く感謝する。そんな想いの積み重ねが、自分を「超越」へと導くことでしょう。
地球は感情の星という役割もありますので、特に感情的因子の破棄は難しいです。
そういうものを持ったままでも、それを超えてしまう心の取得が大切になります。
それが「超越する」ということです。
国や民族を超える
地球は不良星界と言われています。しかも様々な星からいろいろな人種(星人)が集められていることは御神事からも分かります。
地球の一般常識では、地球上各地でいろいろな人間が自然発生してきたと考えられていますが、それは違います。地球人の多くは他の星から来ています。
私がいろいろと調べたり観じたりしたことからは(確たる証拠はありませんが)、宇宙でもこういう多人種が集まっている星は珍しいようです。こういったことにもそれなりの理由があるのです。地球人は劣等な星であり、そこに住む私たちは劣等な不良星人であると思えても、地球は宇宙のために貢献しているのです。
地球が異なる国や民族を与えられているということは、自他一体を理解することを助けてくれます。現在の地球人は自分の所属する民族や国家を一番大切に思い、何でも自分優先としていきます。読売巨人軍ではありませんが、欲しいものは何でもみんな手に入れようとします。そして戦争などの争いへと繋がっていきます。
この混乱を通じて、自分と他人は異なる存在であると思う心が内在していて、それに火をつけてくれることで、反省し、感謝し、心を洗えるように仕向けてくれます。残念ながら、この導きのメカニズムは、意識の進化を想定した「宇宙の法則」のメカニズムであると気付いている人は、ほんのほんの一握りです。それどころか宇宙の法則の存在すら気付いている人は少数です。
戦争がなくなるには世界の人種が段々と混在していって、混血となっていって、人種がひとつになっていけば良いと考える人がいます。
国もひとつになってしまえば、国と国との戦争もなくなるという考え方もあります。そして宗教についても同じように考える人もいます。それでどんどん熱心に、情熱的に布教します。
しかしそれは明らかに間違っています。人種や民族を超えられないからこそ、そして国を超えられないからこそ、私たちは異なる人種や民族や国家をいただいているということができるのです。
皮膚や目の色を違えても、外見ではなく内面的にはそれでもそれぞれが一体であるという愛の心を育むことこそ大切なのです。「現象的に一緒でないと心はひとつになれない」というのは明らかに偽りの愛です。
肉体だけでなく、御法度という心の一部もそうですが、それらの違いや分裂を超越≠オて魂レベルの一体を確立することが必要なのです。 ― 終わり ―*「菩薩下座の行」
「瞑目してゆったりとした気持ちで聞くべし・・」という言葉からはじまる「菩薩下座の行」という「宇宙創造神」からの神示テープ・CD(60分×2巻)がある。
宇宙創造神とは直接繋がれないので「取次ぎの神」を通じた神示であり、内容は・・・
「(前略)・・心を沈めて神の言葉を聴くへし。まず汝が腹をたてざる者になるべく、そのことより始める。(後略)」
と続いていくのだが、この神示は決して文字にしてはならないという忠告がある。文字にしてしまうとそれで分かったつもりになってしまうので、何度も聞きなさいということだ。
だから内容を詳しくは書けないが、神示は「腹立ち」の分析から始まり、腹立ちという心のあり方が如何に理性を失うものであるか、それが如何に地球人を不幸にしているかを説き、更に腹を立てないためにはどのような心の持ち方が必要かと、神示は語り続ける。
また自分に腹を立てるような言動をした人は、実際には慢心や我欲から腹を立てる自分の存在を見せてくれたのであり、反省のきっかけを与えてくれた「恩人」でもあると説いている。