昼下がりのコーヒーブレイク  「宇宙の理」2006年9月号


常識を疑う( 投資編 2)
 



GIVE & TAKE を疑う


 先月は村上ファンド元代表の村上世彰氏の逮捕から“ルール”について書いてみました。
「ルールというものは、本当は(最後には)ない方が良いんですよ」という、他ではなかなか書けないことを書かせてもらいました。今月は村上ファンドに投資して元金を6年間で投資額の2.5倍(2,473万円)にも増やした福井俊彦日銀総裁のことから投資について書いてみようと思います。
 「投資」というイメージから、どういうイメージを持ちますか? どうも世の中の常識からして、「株」などの金融商品に積極的に関わっていて儲けることはカッコいいというイメージがあるようです。また金融商品で儲けた人をうらやましがるだけでなくて、尊敬してしまうという風潮もあるようです。
でも一般にいうところの投資とは、本当は(ユートピア的な最終的な観念としては)良くないことです。本当は良くないことなのに良いことと思ってしまっていることが現代では多くあって、投資も同じです。資本主義も同じなのですが、経済の路線も資本主義に則って敷かれてしまっていて、もうそれ自体を否定してみても、誰も耳を傾けてくれる人など居ようはずがありません。
 ただ世の中は否応なしに光の方向に進んでいて、いままで良いことと考えていたことをそのまま続けていると問題が起きてくるようになってきました。それでこの投資に関しても世の中の見方が少し変わってきたようにも見受けられます。ただ、こういう意識の変化は一時的なものです。長い時間をかけて人間の心に棲み付いてしまったお金への欲が無くなったわけではありませんので、また間もなく元に戻ります。ですから今のうちに投資の本来姿についてそれとなく話題に出してみる価値は出て来ました。

 世間一般でいう金融商品への投資とは、本来は投資ではなくて「投機」です。ほぼ99%は投機です。
そして投機とは “ギャンブル”と性質が同じです。世の個人投資家は正しくは「個人ギャンブラー」ということになるのです。

投資と投機


 投資と投機は異なります。
 『投資』とは、ある企業や事業媒体が成長を遂げるために資金を提供することです。これはオーナーになって事業の成長を願い見守るということで、投資とは本来は見返りが優先されるものではありませんしかし現代の投資のように、事業の成長を二の次として利益の還元を最優先して資金を提供することは本来、投資ではなくてギャンブルであり「投機」と言うべきものなのです。
 日銀の福井総裁も、資金をファンド会社に預けたということは儲かれば相手企業などはどこでも良いということを裏付けています。つまり彼はギャンブラーです。
 そのファンド会社を運営していた村上ファンドはギャンブラーの元締めというところです。
 しかし、世の中は“ギブ&テイク”の秩序で正しく運営されていると信じ込まれていて、与えたもの以上の見返りを期待することは常識となっています。投資も配当が付き物です。それを期待して資金を提供することは現代の資本主義の一助を担っていて、株式投資は立派な行為とされています。
 現代では「投機」を平気で「投資」と言って欺瞞に附しているのです

「プラスサム」と「ゼロサム」

 本来「投資」は株を転売するという意識がそもそもなく、企業の成長それ自体を期待します。企業が成長したら皆が得をしてパッピーになり、失敗したら諦めるしかありません。
 そして「投機」は転売を繰り返すことで、一定の人が得をする一方、その他の人が損をするということが起きています。
 投資が プラスサム(投資した人の損得の合計がプラスになる)と言われ、投機は ゼロサム(投資した人の損得の合計がゼロ以下になる)と言われる所以です。後者は競馬・競輪、マージャン、パチンコなどのすべてのギャンブルと同じです。
 普通の株の売買は価格が安いときに買った株を高いときに売り抜けて儲けることを目的とします。株価の高いときに自分が転売した株価が後で下がって損をする人がいることで、自分の株の売買が成功したと喜ぶわけです。逆にもしも転売後、株価が上がって他人が儲けたら自分が損したということです。つまり地人の損が自分の得の前提なのです。
 こういう動機を原動力にしている株主は企業オーナーにはふさわしくないのです。なぜならば通常の株主は企業の成長など見ておらず、株価の変動しか見ていいないからです。こういう株主は会社を育てることなどまったく考えておらず、自分が儲けること以外に興味はないのです。
 ですから、ライブドア元代表の堀江貴文氏などヒルズ族が、株主のことを大切なオーナーであると言い、「会社の経営は株主の利益を最優先にすること」という考え方がいかに馬鹿げているかが判ると思います。こんな動機で動いている大株主たちに大勢の家族の生活そのものが掛かっている会社を任せることは、許されることではありません。会社をめちゃくちゃにすることになります。

貧者や負け組みのいないプラスサム社会

 このように、一般に投機といわれているものは、一方が得をすることで一方が損をするというゼロサムで成り立っています。他にも、例えば不動産の投資なども同じで、これも投資ではなくギャンブルです。でもゼロサムで動くシステムはユートピアの秩序ではないのです。
 学校や会社の受験などの定員制でも同じことが言えます。
 例えば、受験で合格者が一人出れば不合格者を一人作ることになります。喜びの影には必ず悲しみがあるということで、ある意味、ひとりの喜びには誰かしらの悲しき犠牲が並存しています。しかし、ユートピアには勝ち負けというゼロサムを生む秩序それ自体が存在していないのです。こういうことがユートピアでは起こらないのです(何故そうなのかは別の機会に)。

ギブ&ギブ

「富」について言えば「富は有限である」という概念は間違いです。富は本来、有限ではありません。
 地上にある富など天上の世界から見れば微々たるものです(本当の富は天上世界からやってくる)。富が有限であるという考えが富に限界を作って、株取引やギャンブルなどのように富の有限を前提とした世界を広く作り上げてしまっています。
 この観念が作り出しているものに「ギブ&テイク」という限られた心の世界があります。
 「与えたからには正当な見返りを貰って当然である」という観念で、見返りを前提とし、権利としたサービスです。欧米のチップ制度は正に「ギブ&テイク」の観念の実現です。
 この「ギブ&テイク」という考え方は根本的に間違っています。「与えたら貰うのは当たり前」という意識は「貰えなければ与えない」という意識行動につながります。これが「与える」という行動に限界を作って、与える行為そのものに歯止めをかけてしまっているのです。
 しかし「貰う」「受け取る」ということはもう一方の「与える」という行為があって初めて成り立つのです。現実社会のエネルギーの働きでも、天と地上とのエネルギー授与の関係においても、受け取ることが先にあるのではなくて与えることが先なのです。与えて、与えまくっていれば、受け取るという結果も多発し、エネルギーの循環は淀みなく進むのです。

 ギブ&ギブ こそ正しい宇宙の秩序です

 これを拒んでいるのは性悪説から来る不信感です。自分と他人と神に対する不信です。

与えることが喜び

 受け取ることを前提として与えるよりも、約束されるに関わらず与えていたほうがエネルギーの循環は加速することは当然のことです。
 戦後の日本の復興の原動力のひとつとして、見返りを求めずに与える真のエネルギーの循環を可能とした心をこの国の人々が持っていたことが挙げられるでしょう。日本人はエコノミックアニマルなどと言われてきましたが、「受け取ることを前提にして与える」という西欧社会の方がずっとエコノミックアニマルなのです。戦後の日本人は損得抜きで働き詰めてきましたし、資本家が労働者から搾取するということは西欧諸国と比べたら遥かに為してきませんでした。
 日本は資本主義国でしたが、その実態は他の共産国よりも「共産」に成功した国だったのです。
 ユートピアの秩序はお金がないのですから、資本主義ではないことは明白です。ユートピアは「自分と他人との境」が、役割として存在する以外ありませんから、自分が独占している所有物という実態も極力ないように自然と終結されています。何度か本誌でも書いていますが、ユートピアの秩序は、むしろ私有という概念が少ない共産主義の理想に近いのです。共産主義が間違っていて資本主義が正常であるというのは現代の「疑うべき常識」でもあるのです。
 しかしながら現代は資本主義が勝ち組で、共産主義は負け組みです。共産主義は貧富の差を拡大し、どこの国でも独裁を作ってきました。だから共産主義の国は全部不幸になりました。
 何故でしょうか。お分かりになりますか?
 心洗ができていなかったからです。本当の平等を社会秩序に体現しようとするのならば、心に平等を作り出さなければなりません。私有財産制を無くそうと思ったら、心を“ 私有のない心 ”に変えねばなりません。それを為さずに私有のない秩序を作ると“ 秩序が心の反映と成っていない ”ために宇宙の法則と外れてしまい、不幸な社会を作るのです。
 邪心の傀儡となった共産主義はこのようにして地球上に不調和をばら撒いてきたのです。不良星界には不良星界なりの秩序の作り方があるのです。現代に訳の解からない共産主義を作ろうと夢見て実現しようとしたことが、そういった不幸を作ることとなったのです。
 勘違いされては困りますので加筆させていただきますが、ユートピアには共産主義などという概念はありません。そういう概念も呼び名も作ってはいけません。
 共産主義という定義は存在していませんし、他の定義も一切存在していません。定義があってそれを為そうしていることそれ自体、心が秩序に付いて行けないことの証なのです。
 与えることのみを真の喜びとした心と、自他を仕分けしない統合された心が織り成す秩序がただ、そこにあるだけです。

定義を教え込む前に心の準備を

 もしも共産という定義が自他の分離のない思想であっても、そしてそれが終局的にユートピアの秩序を作っていたとしても、共産を強制してはいけません。何であれ、強制することは良い結果を導き出しません。
 共産とは何かということ、それを構築する心を含めて心を洗うことがまず先です。そうすれば秩序は自然と構築されるのです。

 いま巷間では教育基本法での愛国心のあり方で議論になることがありますが、これについても同じです。
 学徒にはオリンピックで国旗を揚げることを祈り、サッカーのワールドカップで勝利することを願うことは愛国心でもなんでもないことは、いま更説明する必要はないでしょうが、現実はナショナリズムと愛国心を混同している人の方が世界中には圧倒的に多くいます。
 そもそも古今東西、政治家も教育者も哲学者も、愛とは何かを説明できる人は皆無なのに、つまり愛が分からないのに、愛国心など教えられるわけがありません。共産主義は真に他と共産できる心を知らず、つまり「私有のない心」を育まず、理想を無理に推し進めたので不幸がやってきました。同じように愛を知らずに知ったかぶりして愛国心を教えようとしてはいけないのです。
 先ずそれが愛国心を強要してはいけない一つ目の理由ですが、もうひとつは、
 例えば日本人のほとんどは天皇制を受け入れていますが、これは日本人が教えられて作ってきた観念ではありません。日本人の心が自主的に天皇と統一しているに過ぎないのです。愛国教育に関しても、国を愛することができないとすれば、それは愛が希薄という現実があるからであって、それを教育で埋め込めるものではありません。日本人がもともと持っている愛の心を歪めてしまうことも考えられなくはありません。
 また例えば、「ありがとう」が言えない子供に欠けているのは「ありがとう」の意味(概念)の理解ではありません。欠けているのは感謝の気持ちであり、これは経験でしか取得できないのです。「ありがとう」の心を理論で教えても、あるいは叱っても、ありがとうの感謝の心を子供に育むことはできません。まず、子供の心をそのまま受け入れてあげなければなりません。

 韓国や中国の儒教も同じです。儒教の教えとは逆に(どの国も似通っているとは言え)彼らほど思いやりなく嘘で固めた外交を推進している国も珍しいです。
 医師であり『古事記伝』の神代巻を完成した本居宣長は儒教に対して批判的でした。彼は儒教が人に倫理観を教え込もうとすること、それ自体に批判的でした。中国の国内での永続的な侵略・闘争の歴史を視れば、如何に儒教がいい加減であるかが判ると述べ、そして儒教は是々非々で固めて人の柔軟な判断力を妨げるものとなっているとも言うのです。
宣長は私が先述した天皇についても触れていて、儒教のような思想の統制と形成がないままに万世一系の天皇の下で心が統治されている日本の民族性を讃えています。人間の魂の純粋さを理解していた彼は、儒教が持つ人の理解を超えた知識の伝授に対して(恐らくは純粋な魂の自由を奪うものとして=筆者)強烈に反発したのでした。

 特に日本人は柔軟な心を持った民族です。4年前に日本で開催されたサッカーのワールドカップで、敵国の旗を振っていた日本人がいましたが、こんな柔軟な表現力も、それを許してしまう大らかさも、外国では考えられませんし、起こり得ません。
 教義として愛を教えるのならば、その前に教える側がもっと“ 愛 ”についてしっかりと学ばねばなりません。

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