昼下がりのコーヒーブレイク 「宇宙の理」2006年8月号

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常識を疑う(ルール編)


金儲け、悪いことですか?

「金儲け、悪いことですか? みんなが一生懸命お金を儲けて・・ ルールの中で一生懸命に株取引をして儲ける・・ 何が悪いんですか?」

 これは村上ファンド元代表の村上世彰氏が逮捕前に開いた記者会見で、記者から「法律内であれば(利益追求のためには)何をしても良いとお考えですか?」と質されたことに対して逆に記者に放った言葉です。

「ルール」の中なら何をしても良いでしょう・・・と、言う前に、「ルール」って何のためにあるのかを考えてみてください。
「悪い」ですか?・・・ と、問い質す前に、「悪い」ってどういうことかを考えてみてください。

 こういうことが曖昧なのに、分かったつもりで議論だけが進んでしまっています。

 今年の4月号の食事編を最後に「常識を疑う」の稿が途中でお休みになってしまいましたが、復活です。
 今日は「健康」などの話題から少し離れて、ルールの意味について。

 何であれ、人間が作った法律というものは、人が犯す悪の裁量というものを踏まえて測られ、制定されるものです。「そこまで細かいことは定めないでいいだろう」と、あえて細目に踏み込まないこともあるし、人の悪の心を量り知れずに見逃していることも多くあるでしょう。
 いずれにしても人間が作る法というものは完全ではありません。必ず隙間があります。
 そういうことを人は何となく分かっていて、先の記者はある意味、無意識に村上氏に「法律内であれば(法の隙間を潜り抜けてでも)何をしても良いとお考えですか?」と尋ねているのです。
 その観点からは、村上氏の回答は適切なものとなっていませんね。


法治国家


私たちは「法治国家」に生きていますが、法治国家という言葉の響きには、人間は法律がないと秩序を保てないので、社会は法に制御されて当たり前であるという前提を感じます。所謂、性悪説です。
 それゆえに、法は至上の産物であるという思い込みすら見受けられます。
 でも、それはおかしなことです。法というものは駐車違反の法律から憲法に至るまで、終局的には無くす方向にあるものだからです。これは所謂、人間の「神の心」とも言える良心の本質を正しく見据えた上での性善説に基づいています。

 お金を前提とした資本主義なども現代では当たり前のことで、ほとんどの人はこれ以外には社会を運営する秩序は無いと思い込んでいますが、それは違います。今の人類の進化段階での秩序体系としては正解であるというに過ぎません。
 法治国家も同じで、(お金の場合にはお金という3次元の物質に心の秩序を代替してもらっているに過ぎず)法の場合には法という3次元の決まり事に心の秩序を代替してもらっているに過ぎません。

 お金であれ、法であれ、心以外のものに秩序を委ねることは、人間が辿る長い歴史の中でいけないことではないものの、それが至上・終極のものだと思い込んで疑問を持たないと、人間が作っている秩序は次の(法の無い)段階に進まないのです。
 これら法は、心が洗われれば洗われるほどに必要がなくなるものなのです。

 宇宙は、次の段階に進化しないでそのままでいることを許してくれません。宇宙は、そのために様々な法を定め、私たちの心が私たちの社会生活に反映され、心を認識しながら進化できるようにしました。
 これを「宇宙の法則」と言い、人間が生まれ出る以前から存在している、私たちが受け容れるべき唯一絶対の法則です。
 そして村上氏や堀江氏の事件も宇宙の法則に基づいて作られていて、私たちに真の法と秩序はそもそも人間の外にあるのではなく、人間の心の中に備わっているものということを探るきっかけを与えてくれているのです。



世の中は嘘まみれの反映

 村上氏のことに話を戻しますが、村上氏が逮捕されてからの報道を正しいとすると、この会見で語った彼の発言が嘘と欺瞞で塗られていたことが次々に暴露されています。ともかく、彼が記者会見で語った言葉はそのほとんどが自己保身のための嘘であった可能性が非常に大きいと思います。

 ニュース報道というものは、ある意思の下に偽造されたり、面白おかしく創作されたりすることも多いので、報道のすべてを鵜呑みには出来ません。が、それでも確実なのは、村上氏は「企業は株主の為にある」と言いました(念のために言いますが、企業は株主の為にあるのではありません)。
 これは彼自身の言葉としてテレビに何度も映し出されました。同じく株売買絡みで逮捕されたライブドアの元社長の堀江貴文氏も、「会社は株主のために存在する」と言い続けました。しかし堀江氏逮捕後のライブドア株の暴落で、いったい彼は自分の会社の株主にどれほどの迷惑をかけたのでしょうか。
 それにしては仮釈放後の会見でも、皆様に多大なご迷惑をおかけしてというような薄っぺらなお決まりの謝罪はすれども株主に対して責任を語ることはもちろん、具体的にそのことを詫びた様子がない。これは余りにも傲慢です。
 彼は自分が罪を犯したと認めていませんが、事実として彼が信条としている「会社は株主のためにある」「株主への利益の還元を第一に考える」という定義と主義に限りなく反した現実を作ってしまいました。それなのにろくな謝罪もできないということは、これらの理念を信条としていたのではなく、信条としている振りをしていたということです。
 株主のことなどはじめから考えていなかったのであり、彼の言葉も村上氏同様、嘘と欺瞞に満ちていたのです。

 欺瞞と言えば、和田義彦画伯のイタリア人画家アルベルト・スギ氏の絵に対する「盗作疑惑騒動」も同じですね。
 疑惑というか、これはどこから見ても盗作ですが、この絵画の存在それ自体が証拠と言える事実が明白なのに、本人は「盗作ではない」と言い、それは「専門家が見ればすぐに分かることだ」と嘘吹くのと似ています。
 彼らの嘘って、一体何なのでしょうか。
 3人は東京大学と東京芸術大学という日本で一〜二を争う難関に入学していますが、その心のレベルは麻原彰晃と何ら変わりません。

 蛇足ですが、現代で「頭が良い」というのは学校の成績が良かったり、一流大学に入ったりすることですが、これは記憶力がその優劣の判定の大部分を占めています。これは魂の霊性の優劣には何の関係もありません。
 記憶力というのは肉体である脳の活性度の問題ですから、遺伝的影響が大なのです。頭が良いことと人間性が高いこと(人格者であること)とはほとんど関係がありません。
 統計的にはある程度は人格者に記憶力の高い人が多くいると言えないことは無いのですが、それにもそれなりに理由があります。天の仕事の役割を成就するために、目的に有利な肉体(脳)をそれなりに用意させていただいている、ということに過ぎません。



現実を冷静に見れば

 偉そうなことを書いている私にも、こういう心の闇の部分は多くあります。
 この是正すべき心は人類のほぼ全員に備わっていると言っても過言ではないでしょう。その心が全員に大きな事件として出てこないのは、良心と悪心との心の葛藤があり、良心が勝利することで行動が抑制されているからです。でも、完璧ではないのです。大なり小なり、私たちは日常的に罪を犯しています。
 世の中嘘だらけで、それが次々に表に出てくるということは私たちの多くも、そういう闇の部分を心の奥にしまっているということの反映なのです。

 世の中には過去世での経験が豊富で、論理的な理解をきっかけとして悪心を克服していける階段を昇れる人もいれば、今生で問題に直面して間違いを何度も何度も繰り返してからでないと、論理的な理解に達しないという人が大勢います。大勢というより、地球人のほとんどがまだそのレベルにあります。
 冷静に見れば現実はそういう段階です。



私たちはすでに一体

 私たちの内なる世界は全体と隈なく繋がっています。まだ現れていませんが、私たちの無意識はすでに統合(愛)されているのです。
 未知の世界で私たちが共有している真の自由秩序はすでに存在しています。自由と自由がぶつからない真の秩序が、私たちの内なる宇宙にはすでに存在しているのです。
 それをより確固たるものへと成長させるために、そして意識下でもその統合(愛)を思い出すために私たちはハードルを作り出し、外の秩序のサポートを受けながらそれを超越する過程で進化していきます。
 その進化の段階で、つまり意識の統合の秩序を取り戻す階段を駆け上がる過程で、私たちがそれまで着ていた殻を不自由だと感じ、足枷だと感じ、それを一つひとつ脱いでいきます。

 私たち一人ひとりの自由度、一人ひとりの成長の過程がそれぞれ異なるので、もっと自由をと訴える人と、もっと規制をと唱える人が存在しています。
 ですからどう考えても、この真の自由(全体の自由)と幻想の自由(私の自由)は今後、ますますぶつかり合うでしょう。
 最後の審判が近づいている現在、その棲み分けは益々加速するかもしれません。




ルールと秩序は異なる

 人為的ルールを快く思って、ルールに束縛されることに自由と喜びを感じている人など誰もいません。
 それなのになぜルールが必要なのでしょうか。それはルールがないと秩序が保てないからです。
 では、秩序を保つにはルールという規制は必要条件なのでしょうか。いやいや、そうではありません。秩序は本来規制のないときにこそ初めて、淀みなくエネルギーが流れるものです。
 ルールがあるほどに、秩序の流れは1拍ずつ後れを取ります。ルールはあるほどに、秩序本来の姿から一歩も二歩も遠ざけます。
 秩序とは本来、可変的なもので、人為的ルールとは固定的なものです。相容れるものではないのです。
 真の秩序とは本来、真の自由が流れる道であり、ルールとは幻想の(我の)自由を奪うことで真の秩序に近づこうとしているものです。
人間は本来、ルールを定めることで私の自由を矯正されながら、本来の秩序である全体の自由の道を確立しようとしているのです。

【自由と規制の関係は、常に人が自由意思の使い方を習得したレベルに応じて規制の量と強さは定められ、人が真の自由性を取り戻すに従って規制は緩和されていくことが理想なのです。】(拙本「真実の扉」より)

映画の紹介

☆☆☆
ナルニア国物語 ☆☆☆

 今年の冬に日本で公開されたディズニー映画「ナルニア国物語」を観ました。
本当は特に観たい映画ではなかったのですが、そのとき足を運んだ映画館では他に観たいものがなくて、仕方なく観たのでした。ところが、良かったんです。予想以上でした。いろいろと考えさせられました。
「マトリックス」や「スターウォーズ」の映画には天のメッセージが多々あることを以前もここで紹介しましたが、「ナルニア国物語」でもそれを感じました。そして七月二十六日にDVDが発売(レンタル開始)と知って、急遽、ここで紹介します。

 これはイギリス児童文学を壮大なスケールで映画化したものです。第二次大戦下、四人兄妹が親許のロンドンから田舎の大学教授の大きな家に疎開するところから始まります。その家の中から白い魔女が冬に閉ざして支配しているナルニア国に導かれ(次元移動し)、この国を開放するための冒険を綴ったものです。

 ここ数年、ファンタジィックな映画には意味深なところが多く見受けられます。
「マトリックス」では自己の確立≠することの大切さを教えられました。自分で扉を開けることの大切さを学びました。
「ロード・オブ・ザ・リング」では心を洗う≠アと、浄化の大切さを学びました。指輪(邪なもの)に対する執着を捨てないと、ユートピアである新しい地球は建設できないことを教えられました。
 そして、「ナルニア国物語」では自己犠牲の愛≠学ぶことが出来ました。

「ナルニア国物語」から学ぶ自己犠牲の愛は、磔にされたイエスの愛≠ナす。
 映画にはアスランという賢者のライオンが出てきますが、ちょうど彼が人間とナルシア国のために命を犠牲にする場面がありますが、ここでは磔になったイエスの愛を思い起こしました。
 この映画には何度も クリスマス という言葉が出てきたり、兄弟を「アダムの子」と呼び、姉妹を「イヴの子」と呼んでいるのも (単にキリスト教と関連付けられているのかもしれないが)イエスを思い起こしました。

 また次男エドモンドは嘘つきで臆病者で思いやりもなく、兄と姉からいつも叱られているのですが、彼が妹を裏切り兄姉に嘘をつく場面があり、そこでも私は自然と ユダのことを考えていました。
 ただ、実際のユダとは少し異なります。後によく反省し、自己犠牲から敵に立ち向かい「正義の王」と呼ばれるような活躍をしたことです。
 さて、自己犠牲の話ですが、この映画の製作者が自己犠牲の愛を意識して制作したかどうかは判りませんが、天上の世界では、自己犠牲の愛をこの映画で投影していると思います。
 先述したアスランは、死後に生き返るのですが、現実には一度失った肉体はもう元に戻すことは出来ません。
 犠牲という言葉からは、大切なものを失うというイメージが付きまといますが、“ 失い、犠牲 になるのは 虚構の自分の意識 ”であり、肉体であります。本当の自分である実在の自分は失うことなく、永遠なのです。
つまり恐れることは初めからないということで、恐れとは幻想だということなのです。
 そして「失う」という意識は「執着」と結び付き、犠牲になるのは魂ではなく執着を持った現在意識で、正しき自己犠牲とは執着を捨てるということになります。本当の自分である魂は、犠牲によってむしろ光り輝くというわけです。
 この、執着を捨てるというところに、私たちの学びと進化があるのです。結果として、イエスは磔になることで、自己犠牲の尊さを私たちに教えてくれたのです。

 この映画には、「マトリックス」「ロード・オブ・ザ・リング」「ハリー・ポッター」等ほどの派手さはありませんが、しっとりとした、芸術性の高い良い映画でした。
お時間のある方は是非ともご覧くださいませ。