昼下がりのコーヒーブレイク 「宇宙の理」 2006年12月号

常識を疑う(超越編 2)


国家、民族、分化の意味
 
 今年2006年のサッカーのワールド・カップでフランスのジダン選手が頭突きでイタリアのマテラッティ選手の胸を強打し、レッドカードを与えられて退場しました。家族を侮辱されたのが原因のようです。
 彼らは二人とも普段は欧州のクラブチームでプレイしているのですが、ワールド・カップはこれらの各リーグ戦でのプレイとは比べ物にならないほどみんな一所懸命で、熱くなって、プレイも反則も、野次も罵りも激しさを増すようです。原因は国と国との闘いだからです。
 でもそれだったら、もしも民族と民族との戦いのピープル・カップとか、人種同士の戦いのレイス・カップがあったら大変なことでしょう。宗教と宗教に分かれてレリジオン・カップでも開催したらさらに大変なことになってしまうのは明白です。

 でもなぜ、国家とか民族とか、宗教とかの問題が根深く存在しているのでしょうか?
 よく内乱や戦争の元となっている人種や民族を無くせば差別も戦いも無くなると考える人がいますが、 戦いの真の原因を分かっていないと、人種がひとつになればいいとか、宗教がなくなればいいとか思ってしまうのです。
 現在、目障りなものとして存在しているもの。それは排他すべきものではなく、心の成長のために利用するための教材として、例外なく与えられたものです。


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御法度は無くすものではなく超越するもの


 
御法度の心(憎しみ、ねたみ、そねみ、うらやみ、呪い、怒り、不平、不満、疑い心、迷い、心配心、とがめの心、いらいらする心、せかせかする心) は、それを超越するまで心に居続けます。この超越に至る過程を「洗心(第3章の小見出し〈洗心〉参照」と言います。それまで、御法度の心は無くならないと考えるべきです。
 御法度を無くそうという動機は、憑依霊を御祓いしようとするのと似たようなところがあります。それだけでも良いことではありません。それに加えて憑依は自分固有のものではないのでとりあえず離すことが可能でも、御法度は自分自身が持つ心ですから御祓いのようには切り離せないのです。超越することではじめて御法度はその存在の必要性を無くすのです。
 切り離そうにも、その学びを乗り越えてクリアしていないので卒業させてもらえないのです。
 御法度は超えるための教材ですから。
 御法度をマイナス、かつ不必要な意識と考えてはいけないのです。御法度はマイナスであっても必要な意識です。
 御法度が嫌いになるのは本当の自分とは異なる世界を持った自分をそこに見るからだと思いますが、その自分を認識したとしても、変に嫌わず、気に留めず、超越してしまうという学びが必要になるのです。
 嫌悪の意識を向けると却って反応するという法則が動き出します(それはそれで正そう反省できている人への恩恵なのですが・・)。
 御法度を残して尚、愛を深めて超越し、愛と光で包み込んでしまえば、そんなものがまるで無いかのように自分の中の意識はきっと統合されることでしょう。
 え! それは具体的にはどうすればいいのかって?・・・
 それは知りません。何でも答えがあったら楽しいでしょうね。(笑)
 ひとつ言えることは、今までいたるところで言われてきたことですが)多くの辛い経験を、感謝をもって受け入れることの積み重ねが一番です。それが大変なことなのは分かります。が、反省の機会としての辛い経験を回避するということはできません。それでも10回の辛い経験を3回に減らすというような可能でしょう。知識として理解していれば、排他の蟻地獄には落ち込むこともないと思われますから、第一歩は踏み出しやすくなることでしょう。
 それと本気になって願えば、一人ひとりの気づきはきっと教えていただけるのではと思います。
 また、共産主義も資本主義も、自由も不自由も、そして御法度の心もすべての概念は(受け入れ後)超越するべきものであるといっても良いと思います。


悪人を抹殺しても社会は進化しない

 自分の心と御法度の関係を社会に広げてみれば、生活の中での善人・悪人との関係に於いても同じで、悪人を抹殺すれば社会は平和になるかといえば、そうではないのです。私たちは肉体を抹殺出来ても、意識を抹殺することは出来ないからです。それは神のみがすることです。悪人の意識は肉体が無くなっても私たちに関与し続けてきます。基本的には、私たちにすべてを(自分のこととして)受け入れるという悪に対しての許しの心の学びが済んでいないことが一番の原因です。つまり悪を超越していないから、悪と縁を切れないのです。
 もし悪人を抹殺することが原則肯定されるのならば、私たちは悪人を抹殺するために悪人を戴いたということになってしまいます。
 御法度の心であれ何であれ、ハードルを単に捨て去るということは出来ないのです。
 捨てるということはある種、学びから逃げるということです。無くすのではなく、超越することです。「超越」という意識の持ち方は、まさに自己確立への道であり、本当に大切なことなのです。ここには「洗心」という作業抜きに至ることはできません。手抜できないということです。


超越すべき存在たち

 すべては超越が終着駅であり、出発点です。新しい地球はそこから始まります。「超越」ということは、それぐらい大切な姿勢と考えています。
 例えばお金。
 お金がもたらすいざこざを知り、お金に対する欲求が無くなり始めてきた人は、お金を悪者にしてしまうことがあります。
 お金社会だから泥棒がいる、欲が出る。お金は諸悪の根源だからお金に価値を置かない社会体系を作るべきだ、と言うわけです。・・・ 
 でも、お金に無頓着で、お金に第一の価値を置かない心があれば、お金は自然消滅するはずなのです。
 お金に価値を代替している社会、お金に秩序を委ねている社会、私たちの心の程度が現象化されるものとして、まだまだお金社会は必然として存在しています。

 平凡な例えですが、体に進入してくる細菌だってそうです。自分の周りに細菌の居ないきれいな環境を作ることも確かに大切なことではあるでしょう。毎日外出から帰ったらうがいをして、こまめに手を洗って、人ごみの中にはなるべく行かないとかすればある程度細菌の進入から防御できるでしょう。しかし人と触れ合う生活をしている限り、そういう環境はなかなか難しいです。
 細菌が入ってきてもビクともしない抵抗力のある体を作ることが大切です。それは細菌を超越した体とも言えるでしょう。

民族の存在理由

 もうお分かりだと思いますが、それでは冒頭に書いたこと ―― 地球にはなぜ、多くの人種や民族が住んでいるのでしょうか。
 地球は宇宙の中でもちょっと特異なところがあるようです。
 ひとつに、不良星界(ユートピアでない社会秩序を持つ星)であるという現実の中に、様々な星々から不良人(心が洗われていない人)が集められているという事実が存在しているということです。 ― つづく ―