昼下がりのコーヒーブレイク 「宇宙の理」 2006年11月号
常識を疑う( 超越編 1)
「統一」ということ 心に見合っていない社会秩序を構築しようとする問題というのはなかなか厄介なものです。社会システムとして目指している秩序が、例え良いものであっても、心の成長がそれに伴っていないと良い結果は出ないからです。しかし社会は人の心と秩序の関係など見ません。まったく見事に見ていませんので、良いと思った秩序を強引に作り上げようとしてしまいます。共産主義の失敗はその典型です。
しかしこれは共産主義だけでなく、人間が理想を追求して決めている秩序の中では多く見受けられることなのです。このように、あらゆるところで混乱は生じているのですが、その混乱をも想定して、神々は進化のための仕組みを敷き、私たちをサポートしてくれているのです。
先々月(常識を疑う・ギブ&テイク)は、ユートピアは資本主義よりも共産主義がその秩序としては近いものなのに、なぜうまくいかなかったのかについて少し触れてみました。その問題などを含め、心と秩序についてもう少し考えてみたいと思います。
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心を忘れた秩序
共産主義思想というのは社会を「共同体」として構築することを目的とします。
@私有財産制の社会ではなくて、財をみんなで共有した国家による統制社会とすることを目的とします。
それに対して資本主義は(共産主義信奉者に言わせれば)私有財産制であり、力の強い者のが多くを所有してしまうということになります。
さらに共産主義は、
A階級を無くすことで貧富の差を無くすことが可能になると言います。みんなが労働者階級となるということです。
それに対して資本主義は競争社会なので、初めから貧富の差が生じるものと定義されます。今の日本で問題となっている格差社会の進行が、一部では肯定されているのも、この論理からです。更に共産主義信奉者は、資本主義社会は資本家(ブルジョア)が労働者(プロレタリアート)の上位に立つ搾取社会であり、資本主義の国家は例外なくこの形態になるのだと言います。
そして結局のところ人間社会は、
原始共同 → 奴隷 → 封建 → 資本 → 共産 へと、
その社会形態を進化させるものだと言います。
実際に社会の秩序は心と共に「私有」ではなく「共有」へと進化します。唯、念のために言わせていただきますが、私は共産主義思想を支持しているのではありません。ユートピアには共産主義などという概念は存在していないのです。そもそも共産主義を標榜し語らなければならないということ自体が、その社会はそれを実現できないということでもあるのです。
実際に少し前までの日本は、先進国では唯一例外的に貧富の差の少ない社会を、内実は社会・共産主義的に構築することに無意識の内に成功してきました。
しかし日本も、今は欧米社会のようにドライになって人を労わらなくなった分、貧富の差が広がっています。
すべての混乱は心の反映
学習のため、必要だから起きている
秩序と心の関係から言えば、先の共産主義が目指す@とAの双方とも実現するためには、そのような秩序を保つ心を一人ひとりが実現しなければなりません。社会は心の反映だからです。
実際には@とAを目標とした共産主義国家は、どこでもそれを無視して資本主義国会以上の貧富の差を作り出し、一握りの者だけが多大な権力をもち、富み、一握りの者が大部分である(等しく貧しい)労働者を、共産党による一党独裁支配によって統制してきました。
本来、人の物を欲しがらず、人に自分の物を喜んで差し出す無私の心を持った人たちが集ってはじめて、私有財産制は無くなるのです。そして人の上に立ち人を制御・統制したいという自己顕示欲を持たない人たちが集ってこそ、無階級社会も構築されるのです。
共産主義を語る者の誰もが、この単純な原理に対して盲目であり、これを指摘してきませんでした。
良いはずのシステムも心が未熟であれば、良い結果を出さないのです。他人(の心)がうまく乗り切った秩序だからといって、自分もうまく行くとは限らないということです。心の進化度によって秩序も変化される必要があります。
それを知るためには、混乱も学習なので仕方のないことです。神は混乱を見込み済みです。混乱を起こしてもらって、その原因が自分の心にあるということの気づきに至ることで、実際の心の調整は始まるということです。
大きな声でいえませんが、不良星界において、混乱の起こらない人生も、社会も、本来は意味が無いのです(それにしても代償は大きい)。
「なぜ平和がこないの?」「なぜ戦争がなくならないの?」といくら嘆いてみても、戦争の悲惨さを語り、終極の秩序体系を叫んでみても、平和が実現しないのはそのせいです。自分の心を視ないからです。
心の視方について言えば、自分の中で対峙・葛藤する心を直視して、その心を平和にしない限り、社会の平和は訪れないのです。社会の混乱は自分の心の映し絵なのです。宮沢賢治の言葉を私流に変更すれば、「世界全体が幸福にならないのは、個人の幸福が実現されていないから」ということになるのです。
個々の心が統一しないうちは、
世界全体の統一もあり得ない
現実社会では、人々の意識の統一・統合はなかなか進みません。「和」を重んじて長いこと内乱も戦争も無い日本ですら、毎日のようにいろいろと混乱が起きています。
確かに、自分と他人との調和の元である意識の統合というものは大切なことは言うまでもないのですが、これは自分の外ばかり見ていても成就するものではありません。未来永劫… なぜならば、社会において自分と他人の意識が統一できないということは、自分の中の意識の不統一性の反映でもあるからです。
「私たち」の心の中には様々な『私』が住んでいます。勇気ある私、臆病な私、優しい私、非情な私・・ そんな「私たち」の集合が『私』という小宇宙を不統一社会として造り上げています。
「船頭多くいて船、山に登る」という格言がありますが、これはひとつの船に「右へ行け、左へいけ」「進め、戻れ」・・ と命ずる船頭が多くいて、船は混乱して自分の進路を誤ってしまったという状態を示しています。
意識の統一・統合とか「和」というとすぐに自分と他人とが仲良くし、協調し合うと考えますが、自分を省みず先に意識を他に向けるこの考えが、本来の成長の進捗を止めてしまっているのです。私たち全体の意識が統一・統合する前提として、私たち一人ひとりの心の意識たちが統一・統合・和解するということがあるのです。その意識たちの中心人物とは、言うまでも無く、私たちの“魂”です。
御法度の心も必要だから存在している
心洗*を考える余り、自分の中の御法度の心、邪心を忌み嫌って自分はダメなやつだと卑下することはよくあることです。そして御法度*の心を起こさないようにしようと、自分を強く制御しにかかることもよくあることです。
しかしここで肝心なことは、そういった御法度の心を私たちが持つ必要があるから今、私たちの心の中に存在しているということです。御法度とは本来、愛の流れてこない部分であり、進化成長のために作られた幻想です。
御法度の心を超えることで本当の自分は強くなり、進化するのです。だから御法度の心は捨ててはいけないのです。御法度の心を捨てようとして努力しても、なかなか御法度から離れることはできません。学びをクリアしていないので卒業させてもらえないのです。御法度は必要悪なのです。
御法度は捨てるのではなくて、超越することに意義があるのです。
超越するという意識の持ち方が大切になります。
御法度というハードルは、超越することによって初めて、その役割を失い、自分から離れていくのです。
次回は「超越」について考えて見ます。 ― つづく ―
*「御法度」とは「憎しみ、ねたみ、そねみ、うらやみ、呪い、怒り、不平、不満、疑い心、迷い、心配心、とがめの心、いらいらする心、せかせかする心」などを言います。そしてそのような心を起こしてはいけない、ということなのですが、実際には心にあるものは表に出るので、そのような心を起こさないことは不可能です。しかし御法度の心が起きたときによく反省して、人に謝ったり、自分に御法度という醜い心があったことを教えてくれた人に感謝することで心を清めていくことを「洗心」(第3章の小見出し〈洗心〉参照)と言います。すべては自分の心の反映で、自分の嫌いな人も自分の心を視るのに必要だからこそ出現してくれた訳です。