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分別という意味で使われる「わける」という文字を書く場合、「別ける」「分ける」の漢字が使われていますが、物事を知るという意味で使われる「わかる」にも、「解る」「判る」「分かる」の三つの漢字が使われます。
漢字というものは表意文字とも言われているように、一つひとつが意味をもっています。現実には、今はこれらの漢字を用いるときにその意味を重んじて使用している人はあまりいないようです。手もとの辞書をひもといてみましても、これら五つの「語」はすべて「分」で統一できるように書かれてあります。でも、本来は微妙に異なるニュアンスをそれぞれがもっています。
まず、分別と言う意味での「別ける」「分ける」をみると、その意味は大きく異なります。
「別ける」は、元々は別であるものが集合していて、それをそれぞれに仕分けするという意味のようです。
「分ける」は元々はひとつのものを分割するという意味合いで、「合わせる・合成する」とは相対となるニュアンスがあるようです。
一方、物事を知るという意味での「解る」「判る」「分かる」のほうは……
「解る」は理解するという意味でどんな意味かを知ることができるということです。
「判る」は判断の意味でどちらであるかを知ることができることです。
ところが、「分かる」にはこの判断・理解に当てはまる言葉が見当たりません。しかしそこには神によって表意された意味が含まれていると思えるのです。
前述した「私は宇宙で唯一の生命」は、私がこの本を書こうと決めて間もなく、私の中にビジョンを交えて湧いてきた「意識のビッグバン」の想いを詩的に表現したものなのですが、このメッセージには「私たちは元々はひとつで成長のために分かれている者同士」という想いが示されています。
それゆえに「分かる」の意味として私は、元々ひとつのものが分かれているので私たちは既に通じ合っている。だからお互いの想いも伝わってくると感じとることができるのです。
私たちの旅は、このふるさとへの帰還なのです。
これはちょうど、人(神)によって分割されたジグゾーパズル(人)が、またひとつに合体する過程によく似ています。実際のジグゾーパズルと異なるのは、神とつながったそれぞれの自由意思でお互いとふれあい、お互いを感じながら帰還し、合体されるということです。
このように私たちは「神が自(みずか)ら分けたもの」であり「自ら分かれたもの」でした。ですから私のことを「自分」と書きます。両者の合意です。だって両者は元々ひとつなのですから。いま私たちは単にそれを忘れているだけなのです。
神の分身である「自分」には、神の魂が宿り、神と直接通じる霊線があります。魂同士も分裂しているわけではなく、つながって(=分かれて)いる家族です。全体の構成員です。だからよく「あなたの気持ちはよく“分かる”」と言ったりするわけです。
こういった神の表意は漢字だけにあるのではありません。
DIVINE という英単語があります。これは「神のような」「神聖な」という意味です。
そして、これとは何の関連もないような DIVIDE という単語があります。こちらのほうは「分ける」「分かれる」という意味です(「別ける」ではない)。
DIVINE は創造主としての「神」を表しています。「全体」を創り、司り、見渡す意識です。DIVIDE の方は、私の辞書によるとその語源は INDIVIDUAL すなわち「個」とあります。
この DIVINE と DIVIDE の2つのスペルを見たときに私は、「n」と「d」以外は同じということに気づきました。ということで、この二つの言葉からは、 DIVINEと DIVIDE すなわち「全体」と「個」は異なるように見えても、ほとんど同じであるということが暗示されていると思われます。
すべては DIVINE から DIVIDE されていたのです。
そして、私たちは分裂の原初から今日に至るまで、神のエネルギーの供給を受け続けており、今後も変わることなく続くのです。
さて、以上はこの本に書かれていることと読者とがディベート(討論)せずにこの本を読み続けていただくための大切な合意事項です。
霊的な根拠を、現象をもってして証明することはなかなかできないものですが、それでも、私はできるだけこの本を「科学的」に書こうと試みるつもりです。とは言え、けっして証拠を示したりして人を説得しようとも思いません。
科学的とは、分かるように、理解できるように、納得できるように表現する、ということです。決して証拠を示すということではありません。この本の中にも証拠は一切ありません。
動かぬ証拠を見せようとか、人を説得しようとかする想いのエネルギーは新しい地球にはもち込めないエネルギーです。説得というエネルギーについてはまた後でふれますが、そういう想いで文章をつづると、文章に良い波動をもち込むことはできないでしょう。
明るい未来を造ろうとしている宇宙も、私がそういうやり方をする限り、私を支援してはくれないでしょう。それでは私の中に神からの贈り物である未知からのビジョンやアイディアとしての気づきもやってこず、結局は読者の魂と私の魂がこの書を通して通じ合うという、この本の目的も達成されないと思えるのです。
もしも宇宙を創った創造神が本気になって霊的な証拠を人間に提示して真実を理解してもらおうとしていたのなら、とうの昔にできていたことでしょう。宇宙人はいるのかとか、UFOは存在するのかとか、あるいは様々な霊現象は本当なのかとか、そんな結論の出ない討論を延々と繰り返すことはとっくに無用になるほどの証拠を、いくらでも示すことができていたことでしょう。
なにしろ、この広大な宇宙と、そこに棲む生命を創ったのですから。
でも宇宙の意思は、進化の法則でもある宇宙の法則を尊重してそれをしなかったのです。
証拠をもってして霊的真実を理解するというのは、自分の中で確信するということとは程遠いからです。
それは盲目へとつながります。
私がここで述べていることに関しましても、これらの情報は私にとっての真理として私の中にやってきたものなのですが、読者の方にとってはすべてが仮説であるわけです。私の中にやってきた情報が真理であると、私は読者の方を説得することはできませんし、そのつもりもありません。
しかしここで書かれていることをすべて仮説で終わらせるか、読者の方の真理を自分の中に呼び込むヒントとして利用するかは、読者の方の自由意思なのです。
魂をもって分かる人はそれを自分の中から分かる、分からない人、同意できない人はそれを認めないし信じようとしない、そういった現実は人の自由意思の結果としてあるのです。
良いとか悪いとかいう問題ではなく、必要なものは分かるが、必要でないものは分かる必要も同意する必要もないということなのです。
互いが立場を異にする相手を説得しようとしたり、自由意思をコントロールしようとしたりすることは、今後の新しい地球の生き方ではないのです。
分かるという本当の理解は、外部の証拠によって得るものではありません。本当に必要とする真の理解は、真理として常に自分の中にやってきて、未知からの贈り物として自分の中で分かる(伝えられる)ものだからです。
宇宙は私たちのそれぞれが、今は意識することのできない高い自分とつながることによって、自分の真理に気づき、それを分かることを望んでいるのです。
それが霊的自立、自己の確立なのです。
真理は、一人静寂な心を保っているとき突然、前触れもなく、やってきます。
自分のことは自分でする、自分の真理も自分で見つける、というのがこれからの生き方の基本となるでしょう。