第八章
立場について



混在する立場

 一家の主(あるじ)という立場を犠牲にして会社員という立場を重視し、仕事に没頭する会社人間がいたとします。
会社側の立場からすれば会社が給料を払って家族の生活が成り立ち、家族の幸福も維持できるのだから、先ずは会社を中心に考えるのは当たり前だという立場に立つでしょう。
しかし逆に家庭の立場から言えば、私たちの家庭が幸福を保つために会社で仕事をしているのだから、家庭を顧みないで仕事人間 となることは本末転倒の生き方だと考えるでしょう。

 誰でも自分の立場というものをももっています。
 社長、課長、主人、主婦、老人、子供、学生など・・・・ こういった肩書きなどというものも立場の一種で、職種や職制などは肩書 きの典型です。これらは生まれてからそれぞれに作られたり、立場が自然に変化したりするような肩書きですが、生まれながらに してもっている肩書きもたくさんあります。地球人類、白人、黒人、黄色人種、日本人、男女の性別、家筋などです。
 私たちは本当に多くの肩書きをもっていて、この肩書きに沿って人間らしくとか、学生らしくとか、男らしくとかと女らしくと か、管理職らしくとか言い、その立場にふさわしく振舞おうとします。
 私もこの本で人類と動物との違いにふれ、私たちの意識が動物から人間へと肉体を乗り換えることの精神的な理由をあげ、人と して生まれた(人としての立場をもった)ということは何を学ぶためなのかを述べてきました。しかしそれは、私たちが忘れてい る唯一絶対である大元の立場からの目的を踏まえてのことであります。
 立場というのは一種の分裂であるといえるかも知れませんが、それと同時に、全体が進化するための役割であると考えると、皆 の目的は一つということになります。肩書きというのは役割を名前で表したものです。ですから、役割に上下がないように肩書き にも本来は上下関係はないのです。それは私たちが唯一の生命である宇宙創造神から分離し、成長して神の御許に帰還するという 共同創造の役割なのです。それはあくまでもサポートや学びの手段であったり、段階であったりするものです。
人間本来の、もっと遡れば心や魂やスピリット本来の学びの原点の立場を忘れて、手段である一時の立場にこだわってはならないのです。立場や手段である肩書きというものは、決して唯一絶対である大元の目的をもつ立場を凌駕(りょうが)することはできないからです。
 唯一絶対である大元の目的とは、愛を育んで自他一体の唯一の立場に帰還するという意識の進化・成長のことであります。
私たちはこの唯一の目的のために何億年という歳月を掛けて生命活動を続けているのです。それなのに人は、本当の自分が誰であるかということを忘れ去り、この目的をお座成りにしたままで一時の立場にこだわりをももって生きているのです。
会社の社長も退任すればただの人です。むしろ、この肩書きをはずしたときの人間の方が、本来の人の姿なのです。唯一絶対の立場というものを根底にしてそれぞれの立場が連結したとき、すべては調和へと向かうでしょう。



ライアーライアー

ジム・ケリーが主演した「ライアーライアー」というコメディ映画がありました。ライアーとは英語で「嘘つき」のことで、映画では主人公は職業柄? 日常的に嘘をついているという設定になっています。主人公の職業は弁護士です。
 この映画は、離婚裁判で女性の弁護を引き受けた主人公が、依頼人の女性が慰謝料を少しでも多く取るために、彼女に嘘の証言をすることを提案する場面から始まりました。依頼人の女性は主人公の弁護士にこう言います。「これ(弁護士が依頼人に求めている発言)は真実じゃないけど、問題は起きないの」と。
 映画は、この裁判の公判前日に弁護士の息子がある願い事をし、それが神様に聞き入れられたことから映画のテーマが動き出しました。願い事は、「今から24時間、お父さんが嘘をつかないようにしてください」というもので、願いは公判前日の夜に出され、すぐに叶いました。願いが叶ったため、弁護士は裁判当日の公判中も言ってはいけないこと(依頼人に不利になる真実)を次から次へと話してしまいます。
 映画では弁護士はライアー(嘘つき)との設定ですが、この映画はコメディでしたので、実際に弁護士が依頼人に、このように嘘をつくことを恒常的に提案しているとは私は思いませんが、勝利のためには何でもしたいというその心理は、よく表されていたと思います。

 現在の裁判制度というものは、常識的には正しいとほとんどの人は考えているようです。しかしちょっと考えてみれば、この制度の中の弁護士と検事というのはお互いが協力体制になく、お互いの立場を初めから分離してしまっています。ですから原告側と被告側という立場は中立でないことを誰もが知り、前提にしているために、中立である裁判官や陪審員が最終の判断員として存在しているのです。
 真偽にかかわらず被告に対して初めから弁護士はできる限り白、検事はできる限り黒の立場を取るということです。検事と弁護士が真実を求めて協力するということや、手の内を隠さずオープンにして深層を究明しようということは初めから想定されていないからです。今までにも、そんなことは一度だってなかったことでしょう。そういうシステムで裁判は動いていないからです。
 弁護士にしろ検事にしろ、これはいわば二極対立の勝負事なので、自分は負けてもいいから真実を求め公表したいということができるシステムになっていないからです。このような映画が当然のこととして、なんの物議を醸し出すことなく笑いの中で受け入れられていること自体、弁護士の本音とその行為の実態を観衆は受け入れているという前提が成り立っているのだと思います。また製作者もその実態を大衆が無意識に認めていると知るからこそ、これをストーリーのコンセプトとして定めたのだと思います。
 実際に裁判で常に嘘がまかり通っているとは思いません。しかし裁判とは、結局は人間である判事の判断がすべてです。そして弁護士も検事も、判事の印象が少しでも自分のほうに良く向けられるようにとの思いをもって活動していることは間違いないのです。
 すなわち、意識の裏ではどうやって裁判官や陪審員を説得したり好印象を得たりするかが大きなポイントであり、説得力の勝負の一面があるともいえるのです。勝負への意識抜きでの公平な正しい判断は、そもそも難しいシステムなのです。



説得は間違ったエネルギー

 大学などには雄弁会とか弁論部というクラブがあります。この中では、ある問題についてそれを白とする立場と黒とする立場を無作為に割り当て、いかに相手に対して説得力をもった弁論を展開できるかということのトレーニングも行われているようです。
 この場合には、真理・真実を得ることとはまったく関係のないエネルギーが消費されてしまいます。プレゼンティションのスキルを高めるというのなら問題はないのですが、実態はそれにとどまらない場合が多いのです。真実を探求するのではなく、白を黒と思わせる、黒を白と思わせる話法を磨くことになってしまう場合があるということです。
 しかし心得ておきたいことは、私たちにとって重要なことは、決して人を説得することではなく、それぞれが真実を見極める目を養えるように協力し合うことです。特に二十一世紀に生きる人となるためには、自分で自分の真理を見つけられる洞察力、判断力をもつことが不可欠です。常に人に説得されて人の意思で行動していたのでは、そのための経験≠ェできないのです。
 説得とは自分の立場を重視し、人の意思を自分の考えている方向にもっていこうということで、人の自由意思を操作・操縦しようということです。
 このことは宇宙の真理を探究している人でもよく分かっていないというのが現状のようです。特に教えを広めよう広めようと説得の限りを尽くし活動をしている人などには、まったく理解不能でしょう。
 宗教の勧誘なども、自分の考え方を披露して薦める程度は良いとしても強引な勧誘は間違っています。営業マンが強引に売り込むのも間違っています。


 私たちに許されるのは人を操縦することではありません。
 人は肉体という乗り物のパイロットです。
 人の操縦桿(かん)を勝手に握るのはハイジャックです。


 
たとえ練習中であれ、自動車免許を取ろうとしている人のハンドルを教習所の教官が握ることもできません。
 実践という経験なしには上達しないからです。できるのはアドバイスです。

 大切なのは情報を正しく伝えて、最後の選択は相手に任せて判断力を養うということです。ヒントとしてのアドバイスを与えている過程で、結果的にその誠意が説得力をもったとしたら、それは大変結構なことです。でも、説得しようという意識には明らかに人をコントロールしようという意識が混在しています。それは自我意識でもあり、人が自分の力で成長できるようにと導く愛の意識ではありません。
 これは、この書のテーマのひとつでもある「自己確立」を阻む行為です。


子供の自立を支援する

 私たち家族は数年前に東京の北区から隣の区へと引っ越しました。そのときに妻や小学三年生の子供と子供の転校について話す機会がありました。私たちが新しく住むところから、子供が通学している小学校までは都電に乗ってドア・ツー・ドアで四十分ぐらいなので、必ずしも転校の必要がないと考えたのでした。しかし私としては恐れをもたずに新しい環境に入ることに挑戦して欲しかったし、妻も何かと不便が生じるようで、二人とも転校して欲しいことで一致していました。それで私たちは子供に転校を勧めたのですが、子供が抵抗したので私たち夫婦は転校した場合としない場合のメリットとデメリットの情報を公平に子供に伝え、転校するしないの判断は子供に任せることにしました。

 子供は結構、真剣に悩んでいたようでしたが、しばらくして私が子供に、
 「どう、転校するかしないか決めた?」と聞くと、子供は、
 「転校するよ」
 と応えたのです。私は、
 
「そうか、よく決断したね」
 と言うと、子供は、
 
「だって仕方ないでしょ、お母さんが転校しなくちゃいけないって言うんだもん」???・・・
 私は妻に
「ちょっと約束が違うんじゃない?」
 と言いました(妻はちょっと恥ずかしそうな顔をしました)。

 子供といえども自由意思があります。子供の人生は子供のものです。本来、親が強制操作することは許されません。
 親が子供をコントロールして親の思い通りに操ろうとすると、それが原因で子供は自分の人生は自分で創れないという観念を作ってしまったり、被害者意識をもったりしてしまいます。自分は親の最終了解を得ないと何もできないと思い、常に親の顔をうかがうようになり、知らず知らずに人に依存する生き方を身に付けてしまいます。自分で物事を考え、自分の決断に責任をもつという自己確立への道から離れるのです(周りのことを気にするという日本人の性癖は、これからの子供たちには継がせたくないものです)。
 そうではなくて、「自分の親はヒント(情報)はくれても答はくれないんだ」「でもそれは、自分で自分の人生を考え、自分で人生を創造していいということなんだ」「自分は自由という世界に生かされているんだ」「自分の人生は自分の責任において自分が創造していいんだ」という環境、すなわち自由な立場を与え、自分で人生を歩むことを教えることが自立のスタート台です。
 そしてこの生き方を進めることでいつか、「知らず知らずに自分の中から回答を得て、自分の人生を自分の足で歩いていた」ことに気付いていくことでしょう。
それなのに多くの親は、無意識に子供を自分の思い通りにコントロールしようとして、子供の自立を阻んでしまいます。
 この譬えはたかが転校と思われるかも知れませんが、自己の確立を念頭に物事に対処する姿勢としては大変に大事な許しの姿勢と思います。




人は他人の思い通りにはならない

 親子関係だけではなく、友人や恋人との関係、会社での上司と部下の関係から国と国との貿易まで、多くの人間関係に当てはまります。
 営業(販売)の職場では、営業部員という立場からよく自分が(商談を)決めたとか、何とかこの話を決めたいという表現をするものです。しかし実際はそうではなくて、決定権はお金を支払う顧客あるのですから決めるのは自分ではなくて顧客なのです。
 これは自明なことです。それなのに自分が自分が≠ニいう意識が出てしまうのは、営業部員の心に自分を誉められたいというエゴあるからなのですが、社員に対して会社が評価を常に意識させていることがさらにそれに拍車をかけるのです。
営業の仕事は顧客を〃説得〃することではなくて、自分たちの商品を喜んでくれる人がどこにいるのかを探して、彼らにその商品がどういう歓びを生むものかなどの情報を正確に提供し、分かりやすく〃説明〃することなのです。つまりマーケティング力とプレゼンテーション・スキルなのです。そういう意識で仕事をすると、営業という仕事もまんざら辛いものではなくなるのです。ちょっとした意識の変換で、人生は楽しくも辛くもなります。
 家庭でも会社でも上下関係を当たり前のように定義し、人を教育・管理するために説得しようとしたりしますが、ここから〃苦しみ〃は始まります。


 神は人の意識の自立と成長を考え、人の段階から神の意志を直接受け入れて生きることのできる自由意思を与えました。
 神は人を、他人の思い通りに動くようには創らなかったからです。



労組の委員長の出世

 企業の労働組合などでは委員長は、会社側に賃金を上げさせようとしたり、待遇改善を要求する側のリーダーです。この経験を買って、企業は後に労組の委員長を労務担当者として、労組の要求を出来得る限り抑えようとする会社側の重要ポストに迎えることはよくある話です。
 しかし、おかしいとは思いませんか? 立場が変わるとコロッと会社側に立ち、会社の言いなりになって出世ラインに乗ってしまうというのは・・・・
 労組の委員長時代に常に真理の声に波長を合わせて行動していれば、そして今でもそうならば、このようなことは決して起きないのです(もっとも労組の委員長経験者を会社側の労務担当の重要ポストに置いて、組合との話し合いをできるだけスムーズで穏やかなものにしたいという動機に基づくものであれば、話はまたすこし別なのですが・・・・ すべての選択において「動機」はもっとも重要なこと)。



立場変われば

「立場変われば何とやら・・・・」とはよく言われます。この言葉が使われる場合には立場が変わったことによって言動も簡単に変えてしまう人をやや#ロ定的な意識で捉えた言葉だと私は思っています。やや≠ニいうのは、世間には「立場が変わったんだから仕方ない」「しょうがないよ」という意識があると思うからです。
 私たちはこのような、人がもつエゴを認めてしまう情け≠竍甘え≠ニいう常識があります。「自分だって立場が変われば、自分の本音を捨てても同じようにいまの立場に従うだろう」という思いが、「立場変わればがしょうがない」を常識として肯定しています。
 しかし「自分は幸せになりたい」「進化したい」「神の子として生き、できれば宇宙のお役にも立ちたい」という想いが潜在する人のためには、勇気をもって(自分に嘘をつかないで)神聖をもつ本当の自分(良心)としての立場を貫くことをお勧めします。人間とか、民族とか、男とか女とか、企業の一員とかいうことはスピリットや神の子である魂の属性とは何の関係もありません。神とつながり神として生きるには、そういう現象的な立場を理由に本音を曲げて弁解するということはしない生き方を選択しなければなりません。
 今までAに属していてBを非難していたのに、次にBに属したらそんなこと言ったっけと嘘吹いたり、詭弁でごまかす人は多いですが、仮に周りの人間はだませても自分だけはどうしても騙ませないのです。良心がある限り人は、他人は騙せても自分は騙せないようにできているからです。良心は常に自分の心を観ています。そして良心と少しでもつながりがある限り、現在意識は良心を通して自分の心を知らされる、すなわち良心の呵責(かしゃく)を受けることになるからです。
 でも多くの人は、そんな自分を自己欺瞞(ぎまん)で隠し、自分を騙(だま)した振りをするのです。本当は自分の動機が正しくないということに気づいているのに。
 しかし、この良心に沿って生きるということが進化・成長への最短距離なのです。良心の声を聞いて謙虚に認め、心を洗うということが・・・・。
 誰もがこの良心の立場から発動するとき、地球は平和を取り戻すのです。なぜならば、別れてしまった私たちの意識は人の数だけあり、様々の立場を取りますが、分かれている良心の立場はもともとひとつで、今もつながっているのです。そのひとつの動機を絆(きずな)にして、生命活動は愛を元に発動されているからです。


勇気とは何か

 立場が変わっても、自分の信ずる発言は変えない方が誠実な生き方です。以前言っていたことが正しいと信ずるのなら、立場が変わり、今の立場でそれを遂行することがたとえ自分には不利であっても、正しいと信ずることを通すほうが神と通じた誠実な生き方なのです。

 私たちは愛について書いた本を数多く知っています。また、どれも愛とは何かを的確に述べられず、本当の愛とは何かを教えてくれていないことも知っています。それは致し方のないことです。愛を言葉で述べるなんて本来できることではないからです。
 私たちが日常使っている勇気≠ニいう言葉も、言葉で表すのは難しいです。
しかし、ひとつだけ条件付けていたほうが良いと思う概念があります。
 それは、勇気とは火の中に飛び込むことでも、喧嘩に参加することでもないということです。「勇気とは自分の中からくる良心の声に素直に従う」ということです。勇気をはばむ心――すなわち恐れは、神へと帰還し神と一体になり神とつながることを目的としている人にとって、神聖と対峙する最大の敵なのです。すべての敵は外にあるのではなく、自分の心の中にあるのです。
人は間違ったことをすると良心から呵責(かしゃく)されるわけですが、これは神の心である良心を通じて、魂や自分をサポートしてくれているガイドや、自分のハイヤーセルフやスピリットなどの存在、そして宇宙の存在たちからのエネルギーとしてやってくるものと思われます。

 良心とは神が、自分の御許に帰還できるようにと神のシナリオとして書き綴った命綱であり、そして私たちの仕事は忠実に――しかし私たちの誠実でウィットに富んだユニークなアドリブを交えながら――神の意志によって書かれたシナリオに添ってこの役割を演ずることなのです。
そして神の意志とは、「本当の自分」の意志でもあるのです。


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