[ 第七章 ]自分のしたいことをするということ |
「願い」や「希望」は欲なのか?
数年前にある集いの場で、ある若い女性が「コミットすることと欲をもつことの違いが分からない」と言いました。
彼女は、
「コミットとは〜しようとすることで、そこには既に <〜したい> という意識が混在していると思う。だからコミットも欲ではないのか?」
というわけです。
それについてある人が、
「コミットとは実際の行動に参加する意思と行動だ。食事に例えれば、食べたいというのは欲で、食べようと意識し行動するのがコミットだ」
と説明していましたが、質問した人は良く分からなかったようでした。
果たして「〜しよう」「〜したい」という意識は、それをもつこと自体が欲なのでしょうか。
私は十年程前から「宇宙の理」という月刊誌に毎月、文章を掲載させていただいています。
この雑誌には宇宙創造神からの神示も多く掲載されています。ここでの学びを「宇宙学」と呼んでいます。
この宇宙学には宇宙創造神からいただいた「四句御箴言」というすばらしい神示があります。
宇宙学は「求めずとても幸いを享(う)くる人の世」と説き、「〜したい」という意識全般、すなわち、「願い」も「希望」も欲である、としています。
しかし同時に、「宇宙の理」の文中では、「求めよ、されば与えられん」を肯定的に引用したりしているのです。
どうしてこういう矛盾が起こるのでしょうか。
「ワクワクすることをしよう」ってどういうこと?
1980年代の後半にバシャールという宇宙人が、ダリル・アンカというチャネラーを通じて数々の素晴らしい情報を与えてくれました。そして彼は、「ワクワク(exiting
)」という言葉を流行らせました。
バシャールはいつも言うのです。「あなたの一番ワクワクすることをやりなさい」「一番やりたいことをやりなさい」「あなたがワクワクすることを求めなさい」と。
これも先の「四句御箴言」での神示の意図することとはまったく逆の方向性だと思われるかも知れませんが、しかし、バシャールの言葉は正しい方向を示しているのです。
バシャールは言葉には出しませんが、
「自分がワクワクする波動の行動パターンにいると感じたとき、人は正しい道(進化への道)を歩んでいる」
「役割を果たしている」 というに等しいのです。
一般的にニュー・エイジと呼ばれるものは、このように「あなたのしたいことをしなさい」と教えました。しかし舌足らずだったので結果的には簡単に会社を辞めたりしてしまう人が結構出たりしたと聞きました。ですからニュー・エイジは多くの罪を犯したとも言えるのですが、一方では多くの教訓を示したのです。
ワクワクしているのは誰なのか?
問題は、ワクワクしているのは誰なのか? ということなのです。
人間には現在意識、潜在意識、魂やスピリットといった自分側の意識があります。また自分側でも、神としての実在意識と肉体ができるときに遺伝子によって運ばれて作られた意識があります。その中にも自分で意識できるものと無意識とがあります。
さらに人間は自分側とは別に天使や守護霊や宇宙人をはじめ様々な他の霊的ガイドの支援や関与を受けています。そしてこのような神やガイドと、無意識であれ正しくつながっている自分がいるのと同時に、俗にいう因縁霊とか自縛霊とか邪霊とか邪神とか、それはそれは多くの意識体と私たちはアンテナを通じて交信しているのです。
その中で、魂には神の意識と自分の意識をつなぐ媒体としての役割がありますが、自分の心の波長が荒いと魂の精妙な波長とはつながらずに、荒い波長をもった意識体とコンタクトしてしまうことになるのです。
これらの意識が暗躍する場でもある心を洗うことによって、私たちの波長も精妙になり、私たちの意識は自分の魂とダイレクトにつながり、魂を通じてスピリットや神とも正しくつながることになるのです。
地球人の多くはまだエゴの塊で、エゴのしたいことが先に意識に上がってきます。辛い勤めを辞めて楽をしたい、賭け事で儲けたい、有名になりたい、人の上に立ちたい、等々……。
しかし本来、魂を通じてやってくるエネルギーというのは、欲のエネルギーとは明らかに異なる雰囲気があります。ちょっと違うのです。理屈ではないのです。
これを感じることをエネルギーを感じることと言えるでしょうし、こういった異次元からの通信の雰囲気・想いを正しく認識することを「判断力」ということができるでしょう
。
エネルギーを感じる
エネルギーを感じるというと、体で感じたりということをすぐに思い浮かべるかも知れません。実際、私もエネルギーの強い場所では、感じようと意識を向け深呼吸をするだけでそれを体で感じたりすることもあります。
また昔、私が日本在住のアメリカ人の女性ヒーラーでありチャネラーでもあるエリザベス・ニコルソンさんにヒーリングをお願いしたとき、彼女を通していただいた天のエネルギーによりそのヒーリング中に体が硬直状態になり、その後の一週間ぐらいは体に電気が流れているかのように、体がビリビリしていたことがあります。
しかし、このようなエネルギーの感じ方ができても、ものごとの正しい判断ができるかは別なのです。
正しい判断をするには、自分にやってきた想いや直観が、どういうエネルギーであるかということを正しく見極める必要があります。
ある人がやってくるとその場の雰囲気が明るくなったり、ホッとさせてくれたりするような人がいます。
また非常に神聖で静寂な雰囲気をもってきてくれたりする人もいます。
また逆に、常にピリピリとした雰囲気を運んできて、周囲の人々を神経質にさせたり、ビクビクさせたりしている人もいます。
人にはいろいろなエネルギーがあり、それがその場の雰囲気を作り出します。
これと同じように、私たちを見守る天使とかガイドにも、また自分の魂にもそれぞれ固有のエネルギーがあります。
天の存在はそれをインスピレーションとか直観とかとして現在意識に届けようとします。
それと同時に、私たちがもっている欲のエネルギーに同調して私たちとつながろうとする存在もいるのです。日常生活で詐欺にあう場合などは、このエネルギーの判断を間違った場合でしょう。
ですから、私たちが何かをしたいと感じたときに、このエネルギーを読みとる感性が大変に重要になります。五感でエネルギーを感じるよりも、雰囲気として自分の中から天の意思のエネルギーを感じることが大切なのです。
これを間違えなければ「動機」は常に正しく、私たちの人生は開かれていくことでしょう。
魂に宿る本能
「ワクワクしているのは誰か」ということで話を戻しますが、
本能(肉体)に主導される動物と違い、人間は肉体を超越した神の意思に基づいて行動を起こそうと意図し、進化して行きます。
それは「意思」でも「願い」でも、「コミット」でも、そして「欲」でも……そんな自分に「成る」でも「成ろう」でも、そして「成りたい」でもいいのです。
あまり言葉に惑わされない方がいいのです。
要は「動機」、すなわち、その意思(願い)がどこからきているかということが重要なのです。
基本的にはそれが 邪 な存在から現在意識の欲(自我)に働きかけられたものではなく、「本当の私」、すなわち魂を経由した神の意思であればその波動を心地よく感じることでしょう。それが本当のワクワクすることだからです。
人の行動パターンは、すべてこのワクワクする意思にリードされることが理想的なのです。
これは神の意思です。この意思の方向に私たちの使命があります(使命とは役割とも言えます)。
この意思は魂を経由してきます。神の波動(雰囲気)を伴って……。
神の子、魂には「進化しよう、したい」、すなわち「神の御許に還って自他一体を達成したい」という強い願いがあります。
これは神とつながった魂がもつ唯一の本能と言ってもいい位の強い意思です。そしてこれは「自他一体」からの発想ですから「我欲」ではないのです。
ワクワクする想いとは、ある事象に向かった時、それが進化をもたらすワークだと察知した魂の、喜びの波動なのです。
心が洗われていないとワクワクの判断を誤り、欲(自分にないもの)を選び、邪霊の餌食となります。
「自分のワクワクすることを求めよ(=既に自分に与えられているもの=役割を思い出せ、探せ)」と言ったバシャールの言葉と四句御箴言とは、何の矛盾もないのです。
「お父さんはね、自分のしたいことをしようとして
やめてしまうことがよくあるの?」
私は十数年前から背中の痛みに悩まされていました。特に12年前から5〜6年間ぐらいの間は、電車の中で立ちながら本を読んだりして意識を集中していると、立っていられなくなるほど辛くなることがよくありました。
しかし、7年ほど前にある人が私に、「背中の痛みは、人をサポートしていないのが原因の場合がある」と教えてくれました。
背骨と背骨周辺の筋肉には体全体を支える(サポートする)役割があるので、実生活で人のサポートを怠る行動パターンを取ると、霊的にはそれが背中の痛みとして現れるのです。
そこで私は考えました。「私は人々のサポートをしていないのか?」と。
ある日、私の知り合いがそのことに関して、私がまだ自分の使命を思い出していないというヒントを私にくれました。
そのとき、
「アッ! そうか、私がサポートしていないのは人間ではなかったんだ」という直観がやって来ました。
その後、それを裏付ける情報が矢継ぎ早に私のところにやって来ました(先ず自分で気づかないと教えてくれない―ここがポイント)。
最も印象的な情報は、当時6歳の息子の言葉でした。
私は、当時チャネリング(霊的な存在とつながって情報を受信すること)ができた息子に向かってこうたずねました。
『お父さんの背中が痛いのはどうしてなのか、お父さんのガイドさんに聞いてみてよ』と。
彼はしばし目を瞑ってから私に確認するように聞き返しました。
『あのね、お父さんはね、自分のしたいことをしようとしてやめてしまうことがよくあるの?……』と。
『うん、よくあるよ』と、私が答えると……
『なんかね、それが背中が痛いのと関係あるんだって、(私のガイドが)そう言ってるよ』と息子は言うのです。 私がサポートしていないのは人間ではなかったということを再確認しました。
つまり、「私のやりたいこと」と「私の使命」とがリンクしていて、天に通じる私(魂)はその天の意思に同意して「しよう」としても、もう一人の私(現在意識)は「やめた」と思ってしまうのです。理由は面倒くさいと思ったり、どうせできないと思ったり、失敗したらどうしようと恐怖心をもったりしてやらないのです。
そして私は真理の声を拒む生活パターンを続けていたということでもありました。
「意思」があっても「意志」が働かなかったということです(第5章参照)。
私たちは肉体をもちますが、天にいる存在は肉体をもちません。ですから天の存在にしてみれば、この三次元の地球を光溢れる星にするためには、肉体をもった私たちの働きがどうしても必要なのです。私たちが動くことこそが、私たちが直接、天をサポートすることとなるのです。 私の場合、私が動かなかったことが結果として「天をサポートしていない」ことになり、三次元で肉体をサポートしている背骨周辺の痛みとして現れてきたのです。本当の私がやりたい想いを、私の恐怖心が上回っていたのです。恐怖心優先の行動パターンだったわけです。
これは先の四句御箴言でいうところの「与えられたことを拒む」という欲と言えます。
そのことに気づいて勇気をもって生きようとして以来、背中の痛みはだいぶ楽になりました。
自分のことは自分でするという宇宙の法則がある以上、地球のことも地球人自身がしなければなりません。
しかし私は、ある理由から地球が宇宙全体のためにもつ役割は非常に壮大で重要であり、地球の変化が宇宙に大きな光をもたらすこととなると考えているのです。このことについてはまだ科学的な説明ができる段階には無いのでここでは詳しくふれませんが、それだけ宇宙にとっても地球の行方は注目の的で、他人事(ひとごと)として地球をただ黙って見ているわけにはいかないと考えているのです。それ故にとても多くの間接的なサポートを、地球は受けている可能性があります。
雑誌「宇宙の理」に載せるために文章を書いていたときのことです。そのときのタイトルは「私は神」でした。
その文章では、「肉体をもつ私たちは、単に学びのために地球に降りてきたのではなく、神と共に生きるもっと別の意味がある」という私の中に以前からあった想いを綴っていたときでした。
その文章を書き始めて、初めから自分の思考で書いているという感じがしなかったのですが、特に途中から私の中のエネルギーが変わり、突然、熱い想いが湧いてきて、ディスプレイを見る私の目が涙で霞んできました。そのエネルギーが離れないうちにと、自分の中から湧いてきた想いをそのままいっきにキーボードに打ち込みました。
そのときの文章を次に掲載しますが、私のエネルギーは徐々に変わってきて、太字になったところからは特に大きく変化したところです。
私にはあるイメージが常にあるのです。次につづるのは、私の中にあるそのストーリーです。
真理と呼べるような本当の気づきは、「宇宙には神の法則があり、自分も神とつながって役割を果たす中で現実を創造しているんだ」と、人間の誰もがもっている役割に添って(無意識であれ)生きようとしないとなかなかやってこないものです。
まず何よりも、意味なく存在している人などいないということ、人には誰でも宇宙的な役割が必ずあるということを受け容れる必要があるでしょう。
この、「私たちの生きる目的は何か」「自分の使命は何か」ということは、私たちがいままで外から教えられたことではなく、自分の中から気づかねばならないのです。
それは学校の教科書にも書いてなければ、宗教の教義の中にも、真の神からの神示の中にすら一切現されていないのです。
本屋に行って「私の真理」の書いてある本を探してみても見つからないのです。そういう本は存在していないからです。
またそれは、運命的に決まっていて変えられないという固定的なものではないので、形には残せないからです。
ニュー・エイジにかぶれ、チャネリングセッションを何度も受けて、「私の使命はなんですか?」と尋ねても、本当に肝心なことは決して教えてくれないでしょう。最後は自分で自分の「真実の扉」を開け、自分で確立しなければならないからです。
使命としての真理の気づきは、自分で理解しないと本当の理解とは程遠いので、人から教えられた理解ではその役割をエネルギッシュに果たすことも難しいのです。
そこで真理は、『マトリックス』の映画で預言者が嘘を付いてまでネオに真理に目覚めてもらおうとしたように、他からは直接教えられらいようにうまく仕組まれているのです。教えてくれるのはヒントだけです。
また、私たちの生きる役割は一人ひとり異なるので、それは他人には分からず、その役割は時に応じて常に動き変化しています。
ですから役割を告げる真理も自分の中から受け取ることが必要となります。
ありがたいことに、それは「エネルギーを充分に注げること」として、すなわち「自分がしたいこと」としてやってきます。このような深遠な真理、自分がなぜ地球に生まれて生きているのかというような自分の宇宙的・霊的な使命(役割)のヒントとなる情報は、自分という存在が肉体を着た人間であってそれ以外の何者でもないというような固定観念をもっていたのでは、仮にやってきても、まず分かることはないでしょう。その固定観念の枠を破って現在意識まで届けられることは、まずできないと思われます。
それでは当然、真理は受け容れることができません。そしてそれは、私たちを支援してくれている天と宇宙の意思をも受け容れないということになるのです。
真の意思は肉体側にあるのではなく、天から流されるものなのに……。
人間は神ではない、と思っている内はなかなか神とは波長を合わせられず、つながらず、神の意識も受け入れらないということです。それでは本当の自分が誰なのかとか、自分が生きている本当の意味は何なのかも分からず、自分の役割を演ずることも難しくなるのです。
既存の知識である既成概念がこだわりとなって巣食っているうちは……。
もうだいぶ昔のことですが、窓から外を眺めながらもの思いに耽っていました。そのとき自由について考えていたら、急にあるビジョンがやってきました。
「自分のしたいことをしていて調和が保てる自由社会などあり得るのだろうか?」
「自由には義務や責任があるとよく言われるが、どうして自由に義務や責任という不自由(制限)が伴わなければならないのだろう?」
「そんな矛盾があるわけないではないか」
「自由はどこまで行っても自由なはずだ……」
などと物思いに耽っていたときでした。
ああでもない、こうでもないと考えていてしばらくして、一瞬時間と思考が止まりボーッしたと思われたとき、それはやってきました。 浮かんできたビジョンは、テニスを二人で楽しそうにしている情景でした。そこには戦いの波動はありませんでした。
「ラインの内にボールを打ち返さなければイケナイ・・」 ではなく、 「入れてあげたい」 との想いが伝わってきました。
「相手の打ちやすいボールを打たなければイケナイ・・」 ではなく、 「打ってあげたい」 との思いやりがありました。
相手を打ち負かそうとか勝とうとかいう類の邪念のないものでした。
ふたりは一体であり、あらゆるルール(制限)はふたりにとって何の意味もないものでした。この自由な調和をズッとずっと続けていたいとの想いがありました。そんな喜びと笑いの波動に溢れていました。それは理屈ではありませんでした。
そのとき、「あっ、そうか!」と思いました。
「自由とは何か」のヴェールがは剥がれたのです。
今までは自由の意味を知らないで自由という言葉を使っていたナ、という感じでした。
真理というのはこのように、自分が理解できるような個人的な情報として、時期がくれば真理の側からいとも簡単にやってきます。いとも簡単というのは、それは既に自分の中にある情報だからです。
私たちが昔、一体であったとき、そんな自由を体験していました。だから「あっ、そうか、なーんだ、そんな簡単なことだったのか」と思ってしまうのです。否、思い出すのです。 そしてそれは、自分がそれを受け容れられる状態になった時期が来たときにやってくるものです。
受け容れられるというのは、理解できるということだけではなくて、その情報を正しく利用できる―すなわち自分と自分の周りのあらゆる生命が成長するために有益に利用することができる、ということも含むのです。
この自由についてのメッセージは私の魂からの、あるいはガイドからの、あるいはスピリットからのとても興味深いメッセージでした。
というのは、私はテニスなど全く興味がないからです。テニスのラケットなどほとんど握ったことがなかった私に、どうしてテニスの情景のメッセージが届いたのでしょうか? どうして野球のキャッチボールであったり、ピッチャーとバッターではいけなかったのでしょうか?
実は私は中学時代に野球部に籍を置き、プロ野球選手になるのが夢だった少年だったのです。そんな私の場合には、野球は闘争心が先立つので選ばれなかったでは、と思うのです。私がほとんど経験したことのないテニスの方が客観視できるのです。
ですから逆に、テニスを競技として楽しんでいた人へのメッセージでは、他のスポーツが選ばれることも考えられるでしょう。
真理の現れというのはこのように人によって異なります。
それはその人の中から最善として現れてきます。
また、真理の来る方法も人によっては夢やビジョンや一種の直観であったりするのですが、役割も進歩状態も、エネルギーも体質も人によって異なるので、真理の内容も伝達手法も人それぞれ異なると思われるのです。
真理の訪れ・・・ それはテレパシーとも言えるでしょう。一瞬に多くの情報を取得するという意味では、ちょうどEメールを受信したときのような感じです。ディスプレイに光が走り、次の瞬間にメールを開いたらメッセージが一杯詰まっていたというように……。
肉体のない次元での通信は、言葉という聴覚や文字という視覚などの肉体レベルの手段が使えません。
そこで言葉を超えた「念」を通信の手段とすると思いますが、人間だって霊的な進化に伴い、メッセージを高次元から瞬時に取得することが可能になってくるのです。
私の場合には、ここに書いた類の一瞬のビジョンを伴う直観としてやって来ることが多いのですが、一瞬とはいえ、一瞬を超えた言葉に変換し難い―文章にすると何ページにもなるような多くの情報が入っているのです。
例えば、見返りを期待する愛は愛とは呼べないのですが、「結果的に自分に還って来ない愛、一方通行の愛は愛とは呼べないな」 とも、このテニスのメッセージの中で感じ取っています。
これは私の宇宙から来た、私のためのメッセージですから、私には一瞬のメッセージでも通じるのですが、それを言葉で人に伝えようとしても誤解を招いてしまうことが多いのです。
実際、私の受けた情景を人に文章で伝えてみてもピンと来ないかも知れません。
どうでしたか? ・・・ ということで、それぞれが自由にしたいことをしても調和の保てる真の自由とは何かということを、それぞれが自分自身にたずね、自分自身の中から感じ取って、実際にやってきた自分の真理に基づいて、何の束縛も境界も限界もない真の自由を自分の中に体現して、自由に生きる必要があります。
一人ひとりが真の自由を取り戻さないと、真の自由をもつ社会を作りだすことはできないのです。
社会は私たち一人ひとりの心の反映として築かれているからです。