第六章 新しい秩序へのヒント


イチロー選手が貢献する新しい地球への意識変換

 大リーグで活躍するイチロー選手は、平成13年7月6日付けのシアトル・ポスト・インテリジェンサー 紙のインタビューに、「日本では何度も打席に立つときに嫌がらせを受けた」「こちらで最も強く感じたのは選手同士が互いに尊敬しあっている。日本では選手だけでなく、監督やコーチまでもが相手のプ レーを妨げるような言動をする。それが嫌で球場に行きたくなくなるような思いもした」と話しました。

 また以前、スポーツ紙で読みましたが、スポーツ記者がイチロー選手とライバルたちとを比較して、とても執拗に他の選手との数字的な争いについて聞いてくることも、彼には苦痛だったようです。自分自身がそういう生き方を望んでいないからです。
 平成13年8月24日の日本経済新聞の記事では、彼は他の人の動向を気にしていたのでは、自分のプレーに集中することはできないという考えであることが示されていました。
「人の結果が絡んでくることに目を向けることはできない。自分ではどうしようもないことだから・・・」

 競争意識には必ずと言っていいくらい、相手の失敗を望む気持ちが並存します。野次は相手の足を引っ張る行為です。このような意識にふれることを新しい意識の持主は嫌います。
 他の選手は自分以外の選手の動向を気にすることが多いのに、イチロー選手は異なります。他との比較の結果でしかない首位打者争などに関する興味も薄く、彼の興味は首位打者よりも自分がより多くのヒットを打つことにあると言います。

  「人の調子が落ちてきて、自分が(数字を)キープしてトップになる可能性がある。そんなことを意識してグラウンドには立てません」と述べ、そして彼が1994年のオリックス時代に210安打したときも「打率はどうでもいい。安打数を求めるのは(打率に意識を向け)精神的に苦しむのが嫌だから」と語っています。これは彼が20歳のときのコメントです。
 考えてみれば、打率とは安打と凡打との比較から出された数字です。打率を下げる凡打は打率にとって確実に失敗であり、マイナス現象なのです。しかし単純に安打数を求める限り(確かに凡打は安打数を伸ばさないものの)、少なくとも安打数を減らしもしないのです。その分、失敗を恐れずにチャレンジできるのではないでしょうか。
 安打数を求めることは絶対的な価値観で、安打と凡打を比較する打率は相対的な価値観と言っても良いでしょうが、失敗を恐れないという意味では前者が野球人生をより生き生きとさせてくれることでしょう。

 しかしこれも、人と競争しないとやる気が起きないとか、人の上に立ちたいという価値観を求める人にとっては、物足りないということになってしまうのです。
 これらが2流選手の談話でしたら一笑に付されるかもしれませんが、イチロー選手は人気も実力もある打者ですから、こういった何気ない記事を読んだ人々に、「そういうスポーツの楽しみ方もあるんだな」との気づきを与えることでしょう。彼は少なからず人々の意識の変換に貢献していることとなります。このような仕組みが新しい地球の実現のために、至るところで図られているのです。

 現在(2002年)、大リーグと日本のプロ野球で活躍する日本人プレーヤーの中で誰が現役最高のプレーヤーかという質問を日本の野球ファンにすれば、間違いなくイチロー選手がトップの座につくことでしょう。人と比較することを嫌う新しい意識の選手が、多くの古い意識のタイプの選手を結果として抑えて一番になるだろうことも、エネルギーの新しい流れの創造の結果ではないかと感じずにいられません。
 もっと言えば、イチロー選手が2001年の大リーグの首位打者になり、MVPまで獲得した要因は、もちろんイチロー選手の才能が第一なのですが、人類全員が成長するためにとの神の後押しがあったと、私は感じるのです。正しき者は、自らが自らを救える時代に既に入っているのです。
 誰でも、スポーツ競技をしていて相手の失敗にほくそ笑む、という思い出はあるものだと思います。新しい地球のスポーツはこのような意識のない、互いの成功、互いの進歩の喜びを分ち合えるものへと変化させたいものです。


新しい意識の芽生え

 自分が一番になることよりも、みんなの幸せを考えることを優先する進化段階に入ると ― つまり競争心というエネルギーを元に頑張るのではなく、自分がもっているもっと別のエネルギー源を使って自分の生業を営みたいと考えるようになると ― これまでの古い時代の常識をエネルギー源として運営されている社会に馴染まないと感じ始めることでしょう。

 そして今、人と比較するという自分、人の上に立ちたいという自分ではなく、本当の自分を思い出し、自分の想いに正直に生きたいと感じ始めている人が間違いなく増え始めているのです。
 まだ自分でもはっきりと認識していないにしろ、人の根源にある調和のエネルギー源を元にして自分の人生をエネルギッシュに歩んで行けないものかと、心の奥で感じている人々が明らかに増え始めていると、私は感じています。多くの人々が今、人々がふれあい、調和しながら社会を創造することのエネルギー源は、けっして競争心などのギスギスしたエネルギーからくるものではないということに気づき始めています。

 私たちの人生の目的が富を築くこととか、人の上に立って高い肩書きを得ることとか考えている人には、競争心をもつことはとても良いことになります。そんな人に調和を求める生き方を標榜すると「世の中そんなに甘いものではないよ」と諭され、弱肉強食は宇宙の法則だと言わんばかりの返答が返ってきます。
 どう言われようと、新しい地球に波長を合わせ、人生の目的は互いが愛を育み成長することと感じられるように成った人にとっては、自分と人とを別けることで成り立つ様々なエネルギーは余りにも辛く、哀しく感じるものなのです。
 そして、多くの既存の常識から心を放ち、自分の扉を開くことを提唱するこの書を、ここまで気分を害せずに読んでいただいている読者の方は、きっと新しい地球に通じる波動とつながる意識の持ち主なのだと思います。

 もう後戻りすることなく、この道を邁進したいものです。 道はこの方向に真っ直ぐに引かれているからです。
 次元は間違いなく変わります。時代ではなく、「次元」がシフトするのです。もちろん愛と調和の方向に。
 これはアセンションとも言われる次元の上昇です。これは人類が今までに経験したことのない体験としてやって来ます。そしてそれにつれて社会秩序も一変することでしょう。

進む方向は自他一体

 私たちは「唯一の私」から分かれた生命でした。ですから元々は同じだったのです。成長のために便宜上いま、分かれているのです。このことを愛の精神の根源とすると、自分を愛するように他人を愛する「自他一体」こそが、私たちが思い出そうとしている、学ぼうとしている、私たちの目指す調和の道の本流ということになります。
 「自分を愛するように他人を愛する」ことが大切なのは、私たちは互いの中に自分が反映されるように分離が設定されたからです。
 自分の前に現れた他人は、自分の反映と言えるのです。だから自分の反映を愛せないということは、自分を愛していないということなのです。
 自分を愛することが大切なのは、このように逆の見方をすれば、自分を愛することが他人を愛することに直結しているからなのです。
 自分を愛せないから、自分の反映として自分の嫌いな人が自分の前に出現してきているのです。
 これは何度繰り返して言っても言い足りることはありません。 スピリチュアルな世界の深遠なところでは、私たちは既に一体なのです。

 私たちが便宜上分かれているということは、私たちが成長する過程では、悪を知るとか、分離して競争をしてみるとかも含まれていたようなのです。だって私たちは自らの意思で分かれ、私たちが元々ひとつであったことを忘れることを選択したのですから、そのような経験も愛を知るためには必要だったということです。
 光をより深く知るには闇(分離)を経験して、闇を深く知る必要もあったのです。自他の一体感を観じるには一度分離を経験してみる必要があったのです。
 また、興味の対象がなんであれ、愛の深くない若い魂の人でも、とりあえず愛以外のエネルギー源を元に行動力を磨くということの意味もあったのかも知れません。なぜならば人が愛を思い出したとき、これまで悪で育んできたこれらの行動力のエネルギーは、愛から発動される意思を支援するものとして変換されると考えられるからです。

 人類は、もう充分過ぎるぐらいにお互いを傷つけ合ってきました。何度も戦争を繰り返してきました。もう充分に学んできました。もう終わりにするときがやってきました。
 それなのに、企業であれ学校であれ、普段の社会生活の中で競争や争いごとを自ら進んで継続しようとしている人たちがまだまだたくさんいます。否、まだまだそんな人だらけです。このような集合意識の行方が、最終的に私たちに何をもたらすのでしょうか?

真の戦争の原因は

 私たちは戦争の悲惨さを忘れないようにしておけば戦争がなくなるかも知れないと、記念館をたくさん造ってみたりしました。記念日と称して、事ある毎に戦争の悲惨さを訴えたりもしてきました。でもこういうやり方で本当に戦争はなくなるものなのでしょうか?
  そもそも戦争の悲惨さを心に植え付けられていなかったということが、果たして人類が戦争を起こしてきたことの原因だったのでしょうか? その前に真剣に戦争の起きる原因を社会の中に、そして自分の中に私たち人類は本当に探してきたのでしょうか?
 実は、このように戦争の悲惨さを訴えることで戦争に歯止めが掛かると信じていること自体が、人類が戦争の起きる原因を正しく理解していない証なのです。

 戦争の原因は、私たちの戦争への恐怖心が不充分だからでも、戦争への憎しみが不充分だからでもないのです。原因は別のところにあるのです。
 戦争の本当の原因は、私たち人類の心の中に「私が」というエゴと、さらにそれが元で発動される競争心・闘争心という戦争の元があるということなのです
 話は単純なのですが、私たちが謙虚さをもって自分の心を見るということを日常的にしていないと、この単純な原因が分からなくなってしまいます。結果として自分の心を見ないことが真の人間理解を遠のけているのです。なぜ人々は自分の心を謙虚に見ようとしないのでしょうか。  それは…

 戦争が起きる本当の原因を正しく見極めると、現代社会にとってはカルチャーショックになり、とても現代人が受け容れられることではなくなるからです。企業の自由競争も、受験勉強のライバル意識も、みんな戦争の原因になってしまうからです。オリンピックやサッカーのワールドカップで熱狂する意識さえも、戦争を起こす原因となるのです。
 これらを否定されたのでは、今の社会は成り立たないと思われてしまうのです。それに代わる活動力の元であるエネルギーも、それに代わる秩序も初めからあるとは思っていないし、たとえ探しても見つからないだろうし、人々は大いに今のエネルギー源を楽しんでいて、その上そういった価値観が好きだったり、それにしがみつくしか喜びを見出せないでいる人がまだまだ多くいるからです。

 平和を勝ち取るという本当の正義の戦いは、エゴをもつ自分自身の中でこそ為すべきものなのに、このようにして現代社会はそのエネルギーを企業戦士とか戦略とか称して正当化し、戦いの文字は常に自分の外に、隣人に向けられることとなっているのです。
 仮に自分を迫害し、消滅せしめようというような存在との戦いにおいても、それは自分の中の恐怖心との戦いにほかならないのです。
 人類の心の中に、競争心・闘争心という戦争の元がある限り、それが反映という形で永遠に現象界に浮かび上がり続けるのです。なんど同じ経験をしても原因が判らないという、もうそういった子供じみた生き方はやめなければなりません。

 戦争は、私たちの日常生活での闘争の想念が、溜まり溜まって清算すべく浮上してきた現象なのです。戦争だけではなく現実に現れてくる社会現象はすべて、たとえそれがゴシップや社会犯罪という他人事のようなものでも、すべては共同創造として創造され、テレビの画面や新聞の紙面に現れ、私たちに教えてくれているのです。

恐怖のエネルギーで人は変えられな

 戦争はもうやめようと記念館を町に一つずつ造る大計画を実行しても、戦争の悲惨さを映し出した映画を毎週必ず最低一本は観る習慣を人類がもつことを義務付けたところで、100パーセント戦争はなくなることはないでしょう。
 そういう、人間の本質とは別のものである恐怖心という虚構のエネルギーに訴えかけ、いくら人をコントロールしようとしても戦争はなくならないのです。本質は何も変わらないのです。

 なぜならば、恐怖に訴えかけても恐怖心は増すだけだからです。それどころか恐怖心は自己防衛心を必要以上に高めます。
 恐怖心は、愛とは相反する方向にあるエネルギーで、人類が第一番に超越すべきものなのです。
 恐怖心は、自己防衛心を高め自分にバリアを張るということなので、恐怖心こそが自分と他人とを分けてしまう一番大きな幻想のエネルギーなのです。
そして、それが神をも遠ざけるのです。

 恐怖心で人を動かそうとすることは自他を分離すること、すなわち愛とは逆の方向に仕向けるということで、平和の元ではなくて戦いの元を植え付けていることになるのです。そうではなくて、人の本質が動かなければ人は調和に目覚めていかないのです。人の本質が恐怖という幻想を超越しなければ、本当の自分(良心)を勇気をだして生きることができないのです。そんな本当の自分が社会に溢れ、社会を作っていかなければ、現実はなにも変わらないのです。
 見せしめや恐怖心は人を一時的に制御するには役立っても、人の本質を変えることはできないのです。ただ、抑え付けて潜伏させているに過ぎないのです。抑える期間が長ければ長いほど、恐怖の圧力が大きければ大きいほど、そのエネルギーが爆発したときには大きな反響となって戻ってくることでしょう。
 死刑問題などの是非も、このことを理解すると整理しやすくなるでしょう。
 恨みから凶悪犯の肉体を亡くしても、霊的には癒されていないので、凶悪な霊的エネルギーはまた三次元に舞い戻ってくるのです。カルマ(原罪)の法則のメカニズムは、この恨みのエネルギーが戻ってきて人に作用しているのです。

 私たちは分裂して別れたときに、自分たちはもともと一体であったということを忘れてしまいました。それが分離の意識をつくりました。それが競争心や虚栄心、差別心という自他を分離する意識へと具体的に、普遍的に発展していきました。
 この普遍的な分離意識は私たち人類の全員がもっています。それ故に私たちはこれらの意識を人の本質と勘違いしてしまっています。私たちが初めからもっていた不変の意識ではないにもかかわらず……。
 ですから現代では、競争原理が人の営みの本質を得ていると何の疑問もなく肯定されているのです。

 恐怖心なども同様で、これらは常に私たちの意識の表面に現れているので、とても分かりやすい存在なのです。分かりやすい意識ですから扱いも簡単なのです。
 そして、全員がもっているこの扱いやすい意識を利用すると人は簡単に操作されるので、愛と人間理解に乏しい人ほど、この競争原理や恐怖心で人を操ろうとするものです(ですから、上から人を押さえつけて、管理したり指導したりするという人は、現実には人間理解に乏しく、結果として手抜きで次元の低い導きをしていると言えるのです)。
 しかし、人類全員が肉体をもっているからといって、それが人の本質ではないように、たとえそれが人類の全員がもっている意識であっても、人の本質としての絶対条件とはならないのです。意識にも本質的なものと幻想として作られているものとがあるのです。

 幻想としての意識とは、本質がその次元で、その生命の進化段階で必要なものとして、その星のレベルの人の為に肉体遺伝子などを通じて全員に反映されているものなのです。それを人間の本質と取り違えていることから様々の問題が発生するのです。
 幻想の意識は人間が自分で超越するためにと作られたものであり、人が人を操ることに利用するために作られているものではないのです。全員がもっていることと生命の本質とは必ずしも一致するものではないのです。
 人の表面にはまだ充分には出ていなくても、私たちが進化するに従って思い出していくもの、私たちが本当に普遍的に原初からもっているもの、それこそが私たちを平和へと導く、人間の本質、神の本質なのです。

秩序を変えても人の本質は変わらない

 人は余りにもこの人間の本質に目を向けず、幻想としてある競争心、恐怖心、虚栄心などの意識(エゴ)操作で社会が活性化するように意識を向けています。そういう意識を煽って、操作し利用することで社会を運用しています。
 現在は、本来そういう意識を光の方向に変革する努力をすべきときなのに、その何倍もの労力を使って規制を定めたり、仕組みを考えたりしています。しかしそのような秩序で社会を変えようとしても、社会に恒久平和をもたらすことはできないのです。人の心が社会を作っているからです。社会が人間を作っているのではないのです。
 本来、いかなる混乱も自然現象です。本当の原因があって、その原因を是正するために必要な現象が反映として起きてくるのです。それなのに、不幸な現象の真の原因を視て直そうとせず、その自然現象が起きないようにと、規制を定めて原因が作動しないようにしているにしか過ぎないのです。
 政治なども同じで、日本政府はこれまで予算がなくなるとにすぐに国債を増発したり、景気が停滞すると公共事業を増やしたりしてきました。これが一番痛みを伴わずに楽で手っ取り早いからです。つまり病のもとを探さず、改善せず、薬や注射に頼ってきたのです。しかしこれでは病の体質は治るどころか徐々に進行し、長い目で見れば薬が徐々に身体を蝕んでいくことにもなりかねないのです。
 これまで日本の政治はこのようなその場限りの対症療法ばかりをとってきましたが、これでは体質改善にはならないのです。現実に体質は変わらず、国債発行を繰り返し、莫大なツケを国民に残してきました。
 その場しのぎの対処を続けていても、新しい地球建設の心の構造改革にはつながらないのです。

一人ひとりの心を変える

 私たちが気づくべきことは、社会の秩序を変えることで人の心を変えることは絶望的だということです。私たちがするべきことは、バラバラの心を人間の原点で自ら統一することで、規制に頼らずに自由を保てるようにすることです。そのためには一人ひとりが心のエゴを洗い流し、全体と調和する心を取り戻すことが必要なのです。
 全体を変えるためにはまず、一人ひとりの意識が180度転換しなければなりません。意識が変わったら、意識が棲んでいる心を変えねばなりません。心を変えるには、心を見詰め、自分がもつ心の問題点を素直に認め、改善することの行動に着手しなければなりません

 全体の秩序は、一人ひとりの心に見合ったものでなければ正しく機能しないのですから、心が秩序より優先されることは本来、自明なことなのです。そして一人ひとりの心を変えることは、理屈上それほど難しいことではないはずなのです。
 なぜならば、私たちは元々神の許でひとつだったからです。
 これからそれを一から学ぶのでしたら、それは気の遠くなるような話ですが、既に自分の奥にある純粋で無垢な心を思い出すということですから、意識が転換されれば意外と簡単に目覚めるのです。今は進化のために便宜上、バラバラになっているだけなのです。別れているのではなく分かれて(つながって)いるのです。分かれているのだから分かり合えるはずなのです。

無意識に役割を分かち合う

 今は分かれている私たちが一体となるということは、個性を失し、皆が同じ行動を取るということではありません
 むしろ新しい地球の秩序は現代と違って、人と同じことはしないことで効率よく成り立つのです。人の行動も、そのための教育や研修も、現代は画一的に行われるケースが多いですが、これでは同じ事をする人を作るだけです。
 そうではなくて、私たちの個性を豊かに残してそれを生かす方向で今より遥かに効率的に共同創造されるのです。人間の体に無駄がないように、私たちの一人ひとりは全体のために存在意義のある個性をもちます。それをお互いが無意識に分かり合いながら、自分にしかない役割、人と異なった個性を役割として調和させることでひとつにまとまるのです。

 この世には不必要なものなど存在しません。皆、神が必要と認めて創り、必要と認めているから今も存在が許されています。人と違うから役割があり、存在意義があるのです。それなのに人と自分を比較して、周りの人のようにしなければとの意識で行動していると、正しい共同創造が為されないのです。
 なかなかこれ以上は具体的に表現できないのですが、これまで述べたことでも新しい地球が実現する秩序体系の大枠は語れたかと思います。小手先の表面の法という秩序によって強要されるのではなくて、心の秩序体系が高度に機能する社会、それが新しい地球の秩序です。
 ここでの話はとても観念的、理想的で、現実離れしていると感じられるかもしれません。しかし、私の中で理解している新しい地球の秩序は、自他が一体となっている機能の活動そのものであって、理屈であったり決まり事であったりするものではないのです。
 そして、創造とは協力であり、協力とはお互いを許し認め合う平等な自由意思同士で為されるものなのです。そういった共同創造こそが、未来の秩序でもあるのです。
 これは二極対立、上下関係のヒエラルキーで運営されている時代にあって、とても現代の言葉では表現できるものではないのです。
 そんな新しい地球、夢のようなユートピアを造るには、大それた企画を練って実行するのではなく、意識はもっと日常的な小さなことに向けていかなければなりません。人のものを欲しがったり、人を恨んだり、名誉や地位を欲しがり、業績を上げようとしたり、人の上に立ちたいと思ったりする意識―すなわち自他を分離しよう分離しようとする意識、私たちが日々発しながら問題を創りだしている意識に目を向け、自らの心を洗うことなのです。

意思をもったジグゾーパズル

 「何で学校に行かないの?」「ズル休みじゃない」「三日坊主?」・・・
 これはちょっと古い記事ですが平成11年11月23日号の週刊文春で紹介された、千葉県の銚子市に住む14歳の女子中学生のNさんが学校に行かなくなったときに、周囲から浴びた批判です。 彼女は言います。「(初めは)出席番号や身長順に並ばされ、席も決められているのが嫌だったの。子供をバカにしている」と思ったそうです。

  「子供をバカにしている」とのN子さんの表現に、面食らうかたもいるかも知れませんが、彼女が言うように席は決める必要はないのです。席を決めてはいけないというのではなくて、決めないで秩序が保てるのなら、決めない方が良いということです。
 強制するからにはそれなりの理由がないと、強制される側は納得できないものです。その理由がN子さんには、「君たちは大人から座るところを指定されないと秩序を保てない水準」と思われていると映ったのかも知れません。
 人はいろいろな人と交流することで成長しますから、できればその日は誰と並んで勉強するとかは生徒の直観に任せて、お互いの自由な霊的交流をさせた方が良いということです。
 ただ、いまの小学校はそれでは秩序が保てないとの判断からどこも席を決めているのですが、Nさんの場合にはこの枠に縛られたくないという反応が強く出たのです。このような秩序の中で生きることが苦痛に感じられるまでに進化しているとも言えるのです。

 度々述べてきたことですが、自由に生きる生き方を学ぶために私たちは生きています。そのような学びを成長した魂は望み、そのような環境を求めて現実を作って行きます。
 人類は今、ちょうどその過渡期で、学校でもどこでもかえっていろいろな問題がでているとも言えるのです。最終的には共同創造がより高度なレベルで働く秩序体系―自由と自由がぶつからない社会へと地球は向かうでしょう。静寂な心で自分の中の全体にあまねくつながる神とつながり、それぞれの自由意思が統一された共同創造の中で神の秩序は保たれるのです。

 人間の身体に譬えれば、私たちの頭が大元の神で、手足やその指が私たちです。
 と言うと、このように考える方がいるかも知れません。
  「しかし人の手足もその指も、自由意思をもたないではないか、人が手足や指だとすると人は頭の奴隷ではないか」と。
 確かに動物の生態はこれに近いものです。特に第五章で紹介した蜂や蟻の一匹一匹は人間の髪の毛一本一本のようなものです。
 しかし、人間はそうではないのです。私たちの肉体の手足や指は確かに自由意思をもちませんが、実際の人間はそれぞれが思考する分化された自由意思をもっているのです。その私たちが神とつながり、神の意思と元々神から別れている個々の自由意思が互いに合意して、全体は調和の行動を取るのです。
 このことは第3章の中の小見出し「自己確立(霊的自立)」の中で分りやすく書いたつもりです

 自由意思のある人間にとって一番重要なことは、それを自分で感じて自分で行動することです。既に一体である私たちが唯々、自分を(神を)感じて神の意思を自分の意思として演じればいいのです。

 実は、今を生きるということも、あるがままの自分を生きるということも、好きなことをして生きるということも、神とつながって生きるということも、みんな同じことなのです。
 正しき共同創造(霊的自立による霊的創造)こそが真の民主主義であり、神の国の秩序です。心を洗うことによって神の想いは体現できるのです。

 もうひとつ、ジグゾーパズルに比喩してみます。

 ジグゾーパズルを思い浮かべてみてください。ジグゾーパズルは初めにひとつであったものを様々の形に分割し、ごちゃごちゃにしてから再集合を図ります。元々ひとつだったものが分割され個となると、自分がどこにいるべきなのかが分からなくなってしまいました。
 しかし、単なる物質である個々のパズルにはない意識が―それぞれが別の存在ではなくて元々ひとつなのだと知っている意識があります。そこから出(いず)る意思が、それぞれを元の位置に帰還させ、つなぎ合わせようと動くのです。その意思は、現実のパズル・ゲームの場合にはゲームを楽しむ人間のみにあるということになります。
 これはパズルと人間との関係です。

 これを動物と神との関係に比喩してみましょう。
 実際のジグゾーパズルでは人間の手が直接パズルの欠片を手にしますが、動物には神があらかじめインプットした本能がありますので、神は本能を通じて動物と自分をつなげ、全体が調和とまとまりを保ちながらひとつに成るようにパズル(動物社会)は完成されます。
 実際のパズル・ゲームでは、意思をもたない一片を人間の頭脳が手を動かしてひとつになるように完成させました。動物の場合には主に本能を利用して身体を動かせました。

 そして人間と神との関係では……
 すべてのパズルの一片(人間)の意思が、パズル全体を観るひとつの(神の)意思とつながっていると考えてください。人間一人ひとりが元々私たちは一体であったと思い出し、自分たちは神であったと思い出し、人の自由意思が神の意思とつながり神と成ったとき、行動(創造)は高次の共同創造となり、平和な社会秩序を成就するのです。