[ 第5章 ]意識の進化論 |
私たちは子供のころから様々な教えを受けてきました。判断力のないころは親や教師から善悪を教えられ、体系的に「して良いこととしていけないこと」の判断を身につけてきました。
成長すると共に、何が良いことで何が悪いことなのかを自分なりに理解していくようになります。しかし、それはあくまで社会常識に照らし合わせて「良い悪い」を決めているに過ぎないことが多いのではないでしょうか。
私たちは今後、良い悪いという常識としての既知の判断から、正しい間違っているという未知の判断を、光としての自分の中から浮上させていく成長過程に入っていきます。このことは、
T かつて天が私たち人類を導くために地球に降ろした偉大な使者の教えの中から、 その意図を探ることができます。 それぞれの天の使いの教えから、私たち人類が人として成長を遂げる方向性を理解する鍵が隠されています。 |
U 魂が経験する道のりを、魂がコネクトする器(肉体)を鉱物、植物、動物、人類と替えて行く過程を知れば、 生命進化 の足取りを理解することができ、人として生きるということを学ぶこともできるのです。 |
それぞれの器の意識のあり方に意識を向けてみましょう。
以下に綴る二つの情報は、私たち人類がどこへ向かって進もうとしているのかという進化のプロセスの情報とつながり、
人の生きる意味を思い出す鍵と成り得る重要な情報です。
そしてこれを理解することは、純粋で無垢な心で事実を受け入れさえすれば、とても簡単に理解できることなのです。
私たちがこれから歩もうとしているこの進化のプロセスは、私たちが同意している神の「人類進化計画」のシナリオでもあります。
T モーゼ → ブッダ → イエス、……そして今
まず、★印でモーゼ、ブッダ、イエスの説いた教えの流れから人類の進化・成長の方向性を探ると同時に、
☆印では一人の人間が子供から大人へと成長する流れを「いじめ」に例えて照らし合わせてみます。
★@ モーゼは規律を教えました。
十の戒めをヤハウェイから授かり、それを神の規律として民衆に示しました。汝盗むなかれ、汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ……と。
物を盗む人がいて、人を殺す人がいて、姦淫を犯す人がいたからです。
善悪の判断ができていない人々には、法則を形として神が外から与えることで秩序を保つという方法が取られたのです。
☆@ 人の場合にも幼少の頃は善悪の判断ができません。
ですから善悪を知識として教えていきます。私たちは大人たちから人をいじめることはいけないことだよと教えられてきました。
★A ブッダは慈悲を教えました。
人の悲しみや苦しみの出来事を自分に起きたこととして想定できるようになりました。
「かわいそう」という想いが湧いてきたら、そういうことはしないようにしようとする生きかたを学んできました。
☆A 人の子も、子供の頃の遊び仲間などを通じてブッダが説いた慈悲を学びます。
自分がいじめられる辛さを知り、人がいじめられているのを見て、「かわいそう」と感じます。
そういうことはしないようにしようと自分で自分の心に法を定めるのです。
善悪を知識ではなく自分の経験を通して判断する学びが始まります。
★B イエスは愛を教えました。
正義と自己犠牲の愛を説きました。神の国はあなたの中にあると説き、その神の想いに忠実に行動するようにと教えました。
☆B 人が成長するに従い愛の実践が始まります。勇気ある人はいじめられている人を見て「かわいそう」という想いに止まら ず、
「助けたい」という想いが自分の中から湧いてきたら、その想いに沿って素直に行動しようとします。
イエスの自己犠牲の愛に目覚めます。自分の中にある神の国の実現に向けてのチャレンジが始まります。
人類全体の進化の道のり(★)は、一人の人間のそれ(☆)と同じ道のりをたどりました。
天はそれなりのシナリオの下に三人を順次、天より降ろされたのです。
そして今、イエスの後、新しい地球で必要とされるのは、いじめる人をも許し、光へと導く人。
もう、神が降りなくとも一人ひとりが神と成って、地上を歩く。
この例えでは、モーゼ、ブッダ、イエスは、天の御使いとして人類を導くために、一つの目的で地球に下りてきたことと推測しています。
地球では三つの宗派に分かれていますが、天にはないものです。
それを人類は宗派として別けてしまいました。
新しい地球はこのようなメシアの出ない時代であり、自分が自分のメシアとなって進むときなのです。
新しい地球に移行するには、自分の手で自分の扉を開けて行かねばなりません。
この新しい地球の舞台の波動レベルは既に決まっていてもう変更できません。
決まっていないのは新しい舞台を演じる人の 数です。
新しい地球に生きる、宗教や民族といった境界線のない真の愛と自由を体現できる人類が多く現れることが急務な のです。最後の審判は今も進行中です。
つまり、もう地球の進化の時代設定はそれなりに進んでいるのです。
ですから、そこに住む人類の進化のシナリオもそれに倣わねば新しい 地球には移行できないということなのです。
もっとハッキリ言えば、ドジョウやザリガニは泥の中に住んでいて、澄んだ水の環境の中では長く生きられません。
それと同じように、地球人類が心の環境を現状のままにして変えていかないと、ほとんどの人が澄み切った新しい地球には移行できないことになるでしょう。
次に、意識や魂の進化を人間以前から 遡 って観て行きたいと思います。
U 鉱物 → 植物 → 動物 → 人類 → 新人類
■印で自立のために生命の意識が鉱物から人類へと乗り物を乗り換える過程を探りました。
□印では一人の人間の意識の自立への成長過程を探ってみました。
■@ 鉱物はそこにただ存在しています。
何もするということもなく、自分がただ存在しているという感触をひたすら感じています。
□@ 人間に例えれば、母親の胎内でジッとしている胎児と言えましょう。
■A 植物は神様の懐に抱かれた赤子のように、唯々光に向かって育ちます。
自分で話すことも、見ることも、食べることも、立って歩くこともできません。
でも太陽や雨や大地が食事を口まで運んできてくれます。
風や蝶は花粉を運び、子孫を増やす手助けをしてくれます。すべてが自然の恵みです。大自然が親代わりに百パーセント面倒を見てくれます。
□A 人間に例えれば、母親の腕の中で乳を飲む、生まれて間もない赤ん坊と言えましょう。
■B 動物になると食事や子孫繁栄ぐらいは自分でしなさいと自立できる肉体が与えられます。
でも、その肉体にある本能は自由意思を凌駕し、未だ自由な判断が許されません。本能は神の意思がプログラムされているもので、未熟な自由意思の代替品として用意されたと言えるのです。
□B 人間に例えれば、本能の代わりに親や教師がインプットした言いつけに素直に従っている小学生というところでしょうか。
■C 人類となって初めて自由意思が与えられました。
ところが現代人は、未だ自由意思の使い方を充分には熟知していませんでした。
未だ神とつながっていない心のままに本能の薄い、すなわち神のプログラムが強くインプットされていない肉体に入れられてしまったのです。
未熟な自由意思たちは多くの混乱を生みだしました。
そこで人間の知恵は、神と離れた自由意思で善悪を決め、法を定める試行錯誤を繰り返してきました。
その外枠により秩序を保つ選択を強いられることとなりました。
宇宙の法則にしても様々の書物や天の遣いを通じて外から授かるという、未だ自己の確立ができていない段階です。
光と光でないものの狭間で、神と分離した意識が光を求め、闇の中で自分はどう生きたらよいのかと悩む、試練の旅の序幕が演じられています。
□C 人間に例えれば、体は一人前であっても、まだ独り立ちしていない思春期の少年というところでしょうか。
いつも問題を 起こしています。
■D そして今、神の領域に入ろうとする新しい地球に生きる人類は、数々の経験をした意識が、いよいよ自分の内に神がいた(真理があった)と思い出し、自立して自分の真理を生きるという、自分を確立する幕へと舞台は移ります。
その舞台は何の規制も不自由もなく、自分の内なる神と直接つながり、確実に光を選択しながら自分を演じることのできる舞台です。
自己を確立した人々の生きる新しい地球の緞帳が上がります。
□D 人となるための学びを終え、自己を確立して独り立ちするまでに成長した人々です。
現実には今はまだ、まるで自己を確立したかのようにエネルギッシュに邁進している人の多くは、偽りの自分とつながって邁進している人です。
残念ながら今はまだ、幾ばかりかの光の子が暗闇の中にある自分の光を探し出し、愛と調和の波動空間を作り出そうと励んでいる段階です。
今後はこのシナリオを演じる光の子が急速に増えてくることが望まれます。
第一章の冒頭で書いた、私の中にやってきたビジョン「私は宇宙で唯一の生命」にあるように、私たちはそれぞれの自分の内面を学ぶために分かれました。そして、「周りの環境や人間関係の中に反映された自分」を学ぶ世界に生きています。自然界もすべて私たちの反映ですから、自然から学ぶことは一杯あるのです。
戦争も凶悪犯罪も経済的な出来事も、そして有名人のゴシップまで、すべての社会現象は人事(ひとごと)ではなくて、反映としての自然現象です。本来は自分の心の反映と捉えなけばならないのです。なぜならば、これらは全て共同創造されたものだからです。
例えば政治家の汚職や賄賂は、国民にある「人にプレゼントをして何かの見返りを期待する心」の反映とも言えるのです。
この見返りを望む心のなくならない限り、汚職も賄賂もなくなることはないのです。
御中元や御歳暮、年賀状で、自分が上げたのに、出したのに、相手はくれなかったという否定的な思いが湧くことはないでしょうか?
国民が本当に汚職も賄賂もない社会を望むのなら、この小さな心の闇を謙虚に認め、一つひとつ根気よく洗い流さなければなりません。
最近起きている少年たちの理解できない犯罪行為も、閉じこもりも、その多くは親や大人たちの心が何らかの形で反映されていると考えられます。
学校が悪い、家庭の躾がなってないと互いが被害者振ったり、父親不在だと評論家振ったりせずに、自分のこととして受け容れなければ道は観えてこないでしょう。
こうして私たちは自分たちの心が反映された現象を経験し、自分たちの反映と気づきながら自分の心を見詰めて洗い、是正することで自分を高めます。自分を進化成長させることで私たちは(私たちが分かれている、すなわち、つながっている深層の意識を経由して)全体の意識向上に貢献しているのです。私たちの対人関係から自然界の出来事から、動物たちの生活環境から、全てが意識の反映となっています。
「人間は考える葦である」と言われます。また「動物と人間の違いは動物には自由意思がないが人間にはある」ともよく言われます。
そしてダーウィンの進化論(*)が常識とされている現代ならば、より自然界に意識を向けて、動物から人間になるこの意識の変化である進化の過程がもっと研究されてもいいものだと思うのです。この、動物から人間までの意識の体験過程にこそ、人が人となった役割と理由、すなわち人の本当の生き方、本当の学びの方向が示されているのです。
しかし意外とこのことは気づかれていないのです。
前述した進化の基本プロセスの中から、魂がコネクトする乗り物を動物から人間へと替えること(BからC)の意味を知ることは、正に私たちがいま学ぼうとしている「人間として生きる意味」を知ることであり、それを実践して生きることへのヒントにもなるのです。
(*)常識とされているダーウィンの進化論とは、一般に信じられている進化論の場合の話である。
それは「ダーウィンの進化論によると人はサルから進化したことになる」という常識である。しかし筆者が知る限り、ダーウィンが『種の起源』の12年後に書いた『人間の起源』(中央公論社―今西錦司責任編集)では、彼は人間の起源について次のように書いている (以下 〔 〕 内は『人間の起源』から抜粋)。
ダーウィンは、
〔人間は現存するサル類とは祖先を異にする〕
〔人間を含めたサル類全体の古い祖先が、現存する猿類のどれかに酷似していたとか、どれかと同一のものであったと考えるような誤りに陥ってはならない〕
〔(人は)たぶん別の亜目、別の科を要求してもよい〕
と述べる。
確かに彼は〔(人は)旧世界サル類(=狭鼻猿類)の幹からの分岐〕であるというが、彼のいう「旧世界サル類」とは、「人類」と「サル類」というふたつの「類」を大枠でまとめている過ぎないのではないのか。
また彼は、
〔地球に現存する動物の進化は既に止まっている〕 とも言う。
すなわち地球に住む猿は今後永遠に人間には成長しない、ということになる。
ならば人間になる旧サル類と人間にならない旧サル類がいたということになる。そして人間になる旧サル類を人類というのではないのか。
哺乳類をどのような系統的概念でとらえるかと同じように、旧サル類をどのような系統的概念でとらえるかによって「サル」の意味はまったく違ってくる。
〔人間は現存するサル類とは祖先を異にする〕
と明確に述べるダーウィンのこの書を読む限り、私にはダーウィンが人はサルから進化したと述べているとは思えない。
現代のダーウィンの進化論の定説とは違う意味で、ダーウィンは正しかった。
ダーウィンが誤ったのは、弱肉強食を宇宙の進化の法則と位置づけたことで、強いものだけに生きる権利が与えられているかの印象を人々に与え、さらに競争意識を煽ったことだ。
それなのにどうして、「ダーウィンの進化論によると人はサルから進化したことになる」などという誤解が常識とされているのだろうか。
しかしいずれであれ、私の進化論は「意識の進化論」であり、ダーウィンの進化論は「肉体の進化論」である。
神としての意識は、様々な乗り物とつながり、経験してきたと考えられる。
〈グループソウル〉
私たちは唯一の生命である宇宙創造神から分かれました。人間は一人ひとりが個別の意識下で自由意思を授かり、自己確立へのチャレンジの旅に出ました。
しかし動物の場合は自由意思がないと言ってもいいでしょう。
動物の魂はグループソウル(類魂)として機能しているといえ、常に形而上では「グループソウル」の意思に同調し、肉体的には「本能」に導かれて行動するために、一見、神と波長を合わせ、全体が統一性をもって、自然の摂理に則っているかのような行動をとります。
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先日、私の家を出ようと玄関の扉を開けたら、玄関前の手すりに二羽のハトが一メートル間隔で止まっていました。二羽のハトは私に気づくと空へと同時に飛び立ちました。一メートルの間隔は保ったままで右へと二羽が同時に旋回していきました。
この例は二羽ですが、これが集団である渡り鳥の場合であっても同じなのです。何十羽と群れをなす渡り鳥が旋回するとき、まず先頭の一羽が方向を変え、それを見た後ろの鳥たちが後から続いて方向を変えるわけではないのです。群れ全体がひとつの生き物であるかのように波長を合わせてほぼ同時に旋回するのです。これは動物が複数で魂を共有していることのひとつの現れと思います。
一羽だけ中心となる鳥がいて、その波長が全体に行き渡るものと思われます。それで一斉行動をタイムラグなく取ることができるのでしょう。魂がより個として明確に分かれている人間が作る組織の秩序を、これに当てはめることは無理がありますが、日本の天皇制ではその秩序形態を垣間見ることができます。
この中心の一羽を、蜂や蟻は明確に一匹の女王という形で示しています。
〈蜜蜂の秩序〉
蜂と蟻の生態は動物の中では極端なものかも知れませんが、ここではその中から蜜蜂の生態を例にして宇宙の秩序を考え、人間と対比してみます。
蜜蜂は、前年に受精して越冬した女王蜂となるメスが巣づくりをはじめ、その後、産んだ子を育てます。早く孵化(ふか)した蜂はすべてメスで働き蜂となります。夏には先の働き蜂の弟と妹が生まれ、先に生まれた働き蜂が彼らの世話にあたります。
蜜蜂の群れの生態は一匹の女王蜂を中心にメスである多くの働き蜂といくらかのオス(雄蜂)とで営まれ、そのコロニーはひとつの家族社会として運営されます。文献によって多少異なるようですが、オスは百匹程度のようです。コロニーのほとんどを占めるのは五万匹から六万匹と言われる不妊固体であるメスの働き蜂で、女王蜂の生活面でのケアを役割としてもちます。
繁殖には女王蜂となる蜂と十匹程度の雄蜂があたります。悲しいことに、交尾を終えた雄蜂は交尾を終えたその瞬間に生殖器が長く伸び、千切れて死んでしまうのです。残った他の雄蜂も繁殖期を過ぎるとすべて死んでしまうのです。
しかしこれ等も、雄が一生を全うしないことや雌が不妊であること、雄雌の数が著しく不均等であることなど 、 蜂や蟻は全体で一人の人間と同じであると理解することで納得がいくのです。
この一個の固体生命であるコロニーでは、女王蜂は人間の脳であると同時に子宮にもあたると言えるでしょう。たったの百匹とも言われる雄蜂は精子とも言えそうです。というより、精子そのものでしかないのかも知れません。複数の精子(雄蜂)の中からいくつかが受精卵と結びつき、役割を終えます。他の精子(雄蜂)は無用となり死んでしまうのですから、これを私は先に「悲しいことに」と書きましたが、人間の精子の役割に当てはめれば当然のこととなります。
働き蜂は人間の体に例えれば髪の毛一本一本にまで広げて例えられます。
このように蜂の一匹一匹には自由意思がありません。何が蜂たちをこのような行動へといざなうのでしょうか。
動物を含めて人間以外の生き物は魂が明確に個として別れていないので、全体が一つになってグループソウル単位で行動しているのです。
このことはシルバー・バーチやホワイト・イーグルなどの英国でチャネルされた古代霊も言っていることです。蜂や蟻、渡り鳥などは正にその顕著な例だと思います。
またひとつに、前述しましたが基本的には動物には自由意思がなく、行動は全て本能が主導するためと考えられます。
本能には、自由意思を正しく使えない動物に代わって神様が肉体にインプットした神の意思としての役割があります。
常に神の意思の代替である本能からの制御を受けながら動物は営みを続けるのです。
進化過程を見ると、私たち人類の意識が地球上で一番進化していると思えると同時に、人間とは神から一番離れてしまった、別れてしまった存在ともいえるのです。確かにこの見方からは一見、人間よりも動物の方が神を体現していると言えます。
しかし私たちは、分離を経験するという長い旅を終え、生命の本源である神の許へ、いま正に「自由意思」で帰還していこうとしているところなのです。
先に述べたように、人間と動物の大きな違いは、人間は自由意思で行動しますが動物は本能で行動するように設定されているということです。
繰り返しますが、
動物は常に形而上では「グループソウル」の意思に同調し、肉体的には(自由意思が使えないために)「本能」に導かれて行動するので、神と波長を合わせ、全体が統一性をもって、自然の摂理に則っているかのような行動をとります。
ですから、動物から人間へという成長過程から観てみると、人が動物の枠を超えて生きるということは、
● ひとつに「自立し」
● ひとつに「本能に頼らず神の意思を汲む判断力を学ぶこと」
であると言っても過言ではないのです。
一切の制約を取り払って人類の一人ひとりが神の意を汲み、自由に生きて人間の調和を保てたとき、人類に平和が訪れます。
本能とは思考や自由意思に代わって行動を制御し、秩序を維持するように肉体遺伝子にインプットされた神の意思の代替品としてのメモリーです。
夜行性であるとか、餌の獲り方を自然に思い出すとか、仲間は殺さないとか、生きるための狩以外はしないとか、春しかセックスしないとか、これは全部本能です。
もちろん、人間の肉体にも本能は設定されているのですが、動物と比べると非常に希薄に設定されています。
昼と夜を入れ替える自由も、いじめを楽しむ自由も、狩を楽しむ自由も、一年中セックスを楽しむ自由も、全部、自由な判断が許されています。
私たちはときに、「動物は人間と違って、食糧として餌を求めるような場合を除いては他の動物を殺さない。それなのに人間ときたら自分の快楽のために狩をするのだから、動物以下だ」などと人と動物を比較しますが、これは真実ではない、ということが理解していただけるでしょう。
動物と人間は意識の遺伝子構造が異なるために、同様に比較することはできないのです。
確かに考えようによっては、動物は自由意思で神とつながっていないだけで、結果としては本能を通じて神の意を表現していると言えます。
しかし人として生きるということは、本能で神の意思を代替する動物の生き方とは違って、自ら神の意思とつながることですから、学びの大転換のときなのです。それだけ厳しく、それだけ責任もあるのです。
本能という、肉体に制御される生き方(本能は肉体の遺伝子の中にある)― すなわち本当の自分ではない秩序に従う生き方から、自分から神の意思(意思は肉体の遺伝子の中にはない)とつながる学びを人は始めているのです。
私たち人類は今、未熟な自由意思の判断でいろいろとトラブルを起こしながら、その原因を自分で考え是正する学びを繰り返しています。 そして人に指図されないで自分で考えて生きるという環境をもつことで初めて、人間は真の人と成るための学びを始めることができるのです。
この本では『イシ』をほぼ「意思」で統一しましたが、厳密にはイシには「意思」と「意志」があり、それぞれニュアンスが少し異なります。
「意思」は神から流されるアイディアであり、「意志」は人間のマインドを通してそれを行動へといざなうものというイメージが私にはあります。すなわち意思は遺伝されない意識からくるもので、意志は遺伝された人間の意識で思慮し、行動へといざなうものというイメージです。
人間には遺伝する意識と遺伝しない意識があり、遺伝しないものの意識の代表には「愛」がありますが、神からやってくる「意思」も当然、遺伝されている意識からの発想ではありません。愛と同様、神から流されるものなのです。
人の信念も、神から流された意思の反映であればよいのですが、人間がもつ多くの信念は意思からではなく人間側のマインドの判断に勝手に強い「意志」が働きかけて動き出し、それが多くの問題を発生させ、固まった固定観念は問題解決の糸口すらも摘んでしまうようです。
*「神の意思(アイディア)」→「思考」→「プラン」 → 「意志」 →「行動」
実際に私の辞書で二つのイシを調べてみると、
『意思』は「行為の直接の起因となる心理作用」や「行為の認識」であり、また時に「動機」と同義にも用いられるようです。
法的には「意志」ではなく、すべて「意思」を用います。
一方で 『意志』は「物事を決行する心の働き」「何かをしようと決心しさらにそれを遂行する働き」とあります。
これは英語で言うところの「 INTEND」 と言ってもいいでしょう。
行動のスタートである「動機」は確かに創造の大元として重要ですが、最終的にはこの INTEND TO 〜(志)がなければ、動機がどんなに正しくとも自分の現実を創れないのです。
特に、「光の子」においては、動機(意思)は充分正しい場合が多いと思われますが、にも関わらず、現実的には評論家となって自分の現実が作れずに寂しい日々を送っている場合は、この INTEND TO 〜(意志)の欠如に思い当たりはしないでしょうか。