第4章 意識について


様々の私

 今から十年程前に、自宅で私が身支度を終え出かけようと部屋を出ようとしたとき、何か背後の本棚が気になりました。もう出かけなければと思いながらもどうしても気になり部屋に戻りました。そして何気なく本棚の扉を開け、その中から無意識に一冊の本を取り出しました。 それは、マルコの福音をもとにした矢内原忠雄氏の講演記録を一冊にまとめた『イエス伝』という本でした。

 さらに何気なくページを開きそこから文字を追い始めると、ペテロが、磔(はりつけ) になっているイエスを前にして三度、強い誓いの言葉を含めて「私はその男を知らない」と、イエスを否認したことを著したページでした。その箇所を読み始めてすぐに私の中から熱い想いが湧いてきて目から涙がこぼれ始めました。私は声を上げて泣きだしました。

 私はしゃがみこんで全身を震わせながら小さな子供が号泣するようにさらにワーワーと泣き続けました。1分、2分、3分……目に涙が溢れ、涙はポタポタと畳に落ちていました。
 しかし、そのときの肉体に近い私、すなわち私の現在意識は冷静でした。感情的になって嬉しいとか悲しいとか感じていたわけではないのです。
「どうしてこれほどまでに泣き続けるのだろう」「いつまで泣き続けるのだろう」というのが、泣いているときの私の正直な思いでした。この『イエス伝』という本は既に二度ほど読んでいましたから、なぜ今になって急にこのような現象が起きるのだろうかと不思議でした。
 何か私の奥底から別のエネルギーが止めどなく湧いてきている、そんな感じだったです。


 私たちは自分とは一人だと思っています。少なくとも私たちが考えたりしているとき、自分一人で考えていると思っています。
 私も通常は一つの意思で統一されている感覚で生活しています。しかし現実社会で肉体をまとった自分が喜んだり悲しんだり、大きな苦難に遭って右往左往したりするとき、そういう自分とはまた違ったもう一人の自分が、自分に起きている様々の現象を冷静に観ている、という「目」を感じることがしばしばあります。このような場合は、冷静なのは肉体に近い自分ではなく、もう一人の自分ということになります。先の、ペテロがイエスを否認した文章を読んだ時の現象とは逆のケースになりますが、そのときの自分も、もう一人の自分へのコネクトが強まっていくに従い、妙に冷静になっていくのです。

 私がキーボードに向かって自分の感じるままを文章にしている今も、基本的には私には私一人で感じていることを言葉にして書き留めているように思えます。 しかし、微妙に何か別のエネルギーというか、通常の私とは違った感触というか、言葉では言い表せないようなエネルギーの関与を感じます。
 私には自動書記のように自然に手が動いてしまうということはないのですが、流れるような想いが自然と自分の中から湧きあがってきたりすることがよくあります。また感傷的になったり感動したりしているわけでもないのに自然と涙が出てきたり、そんな不思議な感触を交えながらキーボードを打ち込むことも多々あります。それは自分自身でもあるような、あるいは自分とは別の何かが語りかけているような、そんな雰囲気を伴うことがあるのです。

 キーボードに向かっていないときも、例えば窓の外をボーッと眺めていたら突然あるビジョンがやって来て動き出すとか……。その情報が素晴らしければ素晴らしいほど、正直に言って「何でこんな至らない自分にこんなことが分かるのだろうか」「おかしいな」というような気分になったりするものです。
 自分にやってきた真理が、正しきものであると確信をもったとき、それは単なる「直感」とか「私の所感」とかいうような類の、曖昧なものでは決してないのです。普段の表面的な自分とは違うところからきているような気がするものの、情報は明確で存在感があるのです。ですから表現も勢い断定的になります。
 私たちの「私」とは一体誰なのでしょうか?
 まず、人間の意識構造というか、普段、私たちが私と思っている私が、多重の意識の関与を受けていることを、譬え話や、私の経験を参考にして述べてみますが、最終的には自分とは誰かということは明確にはなりません。自分であるような自分ではないような……。自分の領域というものは、ここからここまでというように単純に設定できるものではないのです。

 いずれにしましても、本物も偽物もすべて自分の中を通してやってきます。そして真理も一人ひとり固有のものとして自分の中から訪れてきます。あらゆる宗教の教義にも、あらゆる神の神示にも真実はあっても真理は一切ありません。真実は動かず定まったものですが、真理は定まったものではなく常に動いているからです。

 そういった様々のエネルギーが訪れるときには必ずエネルギーの表情をもってやってきます。それを読み取る感性がこれからは大切になってきます。


「私」の意識構造


 子供が川に落ちて流されている場面に居合わせた人の譬えをあげて、現在意識や潜在意識や魂の意識など、様々の意識の反応をみてみます。

 想像してみて下さい……。
 今、「私」は川辺に座って川の流れを見ています。
 すると川上から溺れた子供が流されてきました。「私」は何を感じるでしょうか?

 ・『アッ! 子供が溺れている、助けなきゃ、それが人としての生き方だから……』 『しかし待てよ、溺れている人を助けようとして巻き添えになることもよくあるようだ……』 これは「困っている人は助けなければいけない」という、教育によって意識づけられた概念や、自分が形成してきた善悪の観念などから脳を駆使して考え、判断しようとしている意識です。これは顕在意識や表面意識と呼ばれるものです。これをここでは「現在意識」とします。

・川に飛び込もうとするんだが、『川は冷たい』『恐い』などという想いが湧き上がり、足がすくんで動けない……。
 これは過去の経験が強い記憶となり、現在意識の下に潜伏している意識の想いです。これを「潜在意識」とします。これは常に表面意識に出ているわけではないのですが、事があると記憶がよみがえり、表面意識に顔を出し、良心や魂の声との間で意識の判断に影響を与えたり、癖のように一定の行動パターンを取らせたりするものです。

『気が付いたら我を忘れて無我夢中で川に飛び込んで子供を救っていた』という様な行動にいざなう意識があります。
 これを「無意識」とします。無意識というのは、人間が作った概念とか観念とか恐れとかを超越したところの意識で、魂(やスピリット)の領域もこの辺りにあります。
 「魂の意識」は三次元の人間のエゴとは異なるところにある精妙なバイブレーションの神の意識で、魂は神やスピリットと現在意識との橋渡しもしています。
 心を洗うことで潜在意識がクリアになると、この神の意識が魂を通じて現在意識とつながり、肉体を動かします。このとき人は神としっかりとつながった状態となるでしょう。人が神を体現している瞬間と言ってもいいかもしれません。

 以上は自分側の意識と言えますが、これに私たちを導こうとしたり、守ろうとしたりしているガイド(日本でいうところの守護神、守護霊、指導霊など)や宇宙人からのテレパシーまで入ってくるのです。また、心が洗われていないほどに魂とのつながりも弱くなり、邪悪な存在の意識の影響も多く受けるようになります。最近起きている少年の凶悪犯罪などは、そのほとんどが邪悪な霊的存在からの影響を無視できないでしょう。


魂とつながる

 もう十数年前からよく見受けられる行動ですが、エレベータを降りるときに何を思ってか後に残った人のために降りる瞬間にエレベータ内の「閉」のボタンを押す人がいます。しかしそのほとんどの人が、開いたエレベータの向こうに乗ろうとしている人がいるかを確認していないように見受けられます。扉の横でエレベータを待っている人がいるかも知れないのに・・・。
 これは果たして、エレベータ内に残った人のための「思いやり」なのでしょうか?

 自分の背後の人を気にして扉の向こうに思いが行かないというのは、むしろ自分が降りることで、一緒に乗っている人に「待たせちゃいけない」という後ろめたさをもち、それがこのような行動に現れてしまうのではないでしょうか?
 待たせたってほんの一瞬なのです。人間の魂というものはこのような余計なことは考えないのです。

 次に 「魂とつながる」ということで、私が小学生のころ、バスの中でお年よりの女性に席を譲ろうとしたときの経験を譬えに出してみます。

 私は学校などではお年寄りには席を譲りましょうと教えられていました。ある日バスの中で私の前に年寄りの女性が立ちました。私は子供としての義務感をもって彼女に席を譲ろうと立ち上がったのですが、その女性は抵抗感を示しながら座ることを拒んだのです。
 後で考えてみますと、その女性は小学生の私には年寄りと見えても、実際には50代半ばぐらいの年齢であったような気がします。女性にすれば「失礼しちゃうわ、私はそんな年寄りではないわよ」ということなのです。
 私が知識や常識や義務感だけで行動し、真の思いやりからの発動をしなかったからこういう失礼なことが起こったのです。
 年老いた私の父などは、乗り物に乗っていて席を譲られたら、ありがたく受けるものだ言います。しかしそういう、なあなあのお決まりの行動パターンでは、そのときは穏便にいっても、気づきもなかなか生まれないのです。席を譲って、女性が拒否してくれたからこそ、私は、私の思いやり的行動が自分の良心に根差したものではなくて、外の概念によるものであったことに気づいたのです。

 私の現在意識が私の魂と正しくつながっていれば、私の魂と女性の魂は正しく通じているので、その想いが正しく共同創造され、きっとその女性に席を譲るような失礼はしなかったことでしょう。しかしそうではなかったのでした。そしてそれはそれで、次の共同創造の意図があったと考えることもできるのです。

 私の魂やガイドが、私の現在意識に本当の思いやりとは何かを知ってもらうために、女性の魂に「自分はあなたに席を譲ることになりますが、そのときの私の申し出を断ってくれませんか」という共同創造を依頼していた可能性があるのです。

 わけが分からなくなってしまうかも知れませんが、大切なのはお年寄りに席を譲る譲らないではなくて、私たちの日々の行動の中に、相手の痛みや悲しみを正確に感じることの方向性が創造されているかどうかということです。つまり、意識が自他一体に向けて進化する状況が生活環境の中に造られているかどうかということなのです。
 私たち自身の意識と、私たちを取り巻く霊的存在たちは、このように意識の進化を意図して、様々な仕組みを考え、共同創造しているのです。
 今は、外の概念に縛られて行動する時代とはさよならするときなのです。自分の中に湧きいずる良心の想いに従うのです。そして今の時代にもっとも大切なことは、その自分の良心の想いに忠実に行動するということなのです。

 この意識の成長状態に達することが、三次元の卒業を間近にした人間として一番大事なことであり、アセンションへの条件になることでしょう。 「何を大げさな、たかがバスの中の話ではないか」と思われる方がいるかも知れませんが、こういう日常的で小さなことで自分を省みることができると、大きな困難の経験をしなくても意識を高めることができるということなのです。  そして「日常的で小さなことで自分を省みること」が現代人の最も不得意とするところでもあるのです。


進化の仕組みに気づく

 私たちの生活は、常に共同創造の中にあります。天も宇宙も日々の生活のなかに多くの気づきを用意しています。しかしほとんどの人はそのせっかくの仕組みを単なる偶然で処理しています。当たり前のことです。宇宙の意思というものをそもそも信じていないのですから。

 次の私の経験は、今から15年程前のことですが、本当によくできた偶然、いや、進化の仕組みでした。

 昔、私と妻と当時2才の息子の3人で近所の遊園地へ行き、子供と子ウサギなどとのふれあいをつくるために用意された小動物を入れる四角い箱を前にしていました。
 私たち家族の隣には、女の子と、その母親がいました。
 四辺の二辺に二家族がいました。L字型に左の辺の左から、私の妻、私、私の息子、右の辺の左から女の子、女の子の母親というように、5人が台を囲んでいた訳です。
 すると、私の右にいる息子を、息子の右隣の女の子が押し倒そうとしました。それを見た私は、思わず女の子の体を強く押してしまいました。女の子の体がグラッとしました。それを見た私の妻は私に言いました。
  「ダメじゃない! ウサギをこっちにやってくれたのよ」…… つまり、当時2歳で背が低く、ウサギに手が届かなかった私の息子に、息子よりひとつ年上ぐらいの隣の女の子がウサギを息子の方に寄せようとして、息子を押してしまったのでした。
 私は恥かしさでいっぱいでした。

 それからほぼ1年後、
 今度は私と息子の2人が、1年前と同じ遊園地の、同じ台の、同じ位置にいました。
 妻はいませんでしたが息子のすぐ右(L字型の台の右側)には1年前の女の子とは別の女の子が、その右には女の子の母親がいました。
 そうしたら、3歳になって背も伸びた息子が自分の右隣にいる2歳ぐらいでウサギに手の届かない小さな女の子の手許にウサギを寄せてあげようとしていました。そのとき息子の体が女の子を押してしまい、女の子は倒れそうになりました。
 それを見た女の子の母親は、なんと息子を強く押し返したではありませんか。

 私はあ然としました。母親の行為にではなく、1年前のことをそのとき思い出したからです。
 私が以前したことを、そのまま返していただいたからです。この偉大な宇宙の意思に、私は心から感謝しました。


 何しろ天は、息子の手がウサギに届くまでに成長するまで1年間も事を起こすのを待っていたのですから。こういう「偶然ではない」と思えるような母と子を捜したり、彼らや私たちがちょうどそのとき遊園地のその場所で出会ったり、いろいろと行動を起こすような仕組みやインスピレーションを送ったりすることは本当に根気のいる大変な作業だと思います。天にいくら感謝してもバチは当たりません。

 そして、すべてが1年前と逆でした。たった一つのことを除いては……。
 それは私の妻がそこにいなかったことです。なぜでしょうか?

 必要がなかったのです。

 妻が、私を叱ることの……



 今もなお、この世には偶然はないという気づきの経験を、私はたくさんさせていただいています。人が不幸であるとか幸せであるとかいうことも皆、現実は全部自分の内面の反映なのです。 私にはこのようなことが本当に多く起こっています。いや、「私には」ではなく誰にでも起きています。しかし気づかないだけなのです。神の意思に意識を向けないからです。もったいないことです。これに気づくと進化は一段と飛躍するのに。
 ただ、ひとつ言えることは、どうせ気づかないし反省もしないという人には、わざわざいろいろな仕組みを天や宇宙は人に用意しないかもしれません。無駄だからです。
 その場合の進化の方法として、天は別の方法を与えることでしょう。
 カルマ(原罪)の法則は、そのために宇宙創造神によって考え出された法則と言ってもいいでしょう。カルマについては本書では触れませんが、カルマは人の恨みが元で動くように作られています。


意識がつながっていることの経験

 ここで私たちの意識はつながっていて分かり合えることの私の経験を二つお話します。
 ユングのいう「深層意識はつながっている」ということと同じことなのですが、ここでの話は私と私の息子とが通じていることの話ということもあり、魂や深層意識というよりも、もっと肉体側の意識がつながっていることの話になると思います。現在意識やマインドなどの肉体ができたときに生じる意識ほどDNAの影響を受けていると考えられ、意識の交流もしやすいからです。

 例えば有名な話で何度もきかれているかもしれませんが、宮崎県の幸島に住む一匹の猿がサツマ芋を海水で洗って食することを覚えたのちに、それが他の幸島の猿に伝播したといいます。4年後に幸島の75パーセントの猿にまで拡がると、その意識は遠く離れた大分県の高崎山の猿にも起こり始めたのでした。猿の意識が猿に伝播するのです。これは遺伝子が同じだと伝播しやすいということの一例になると思います。

 まだこの書ではふれませんが、先祖供養や先祖崇拝の重要性などもここにあるようです。血のつながりの強いほどに肉体に近い意識もつながりやすいということなのです。
 このことの理解は近い将来に私たちが知ることになるだろう、日本がもっている世界的な役割、地球がもっている宇宙の特別な役割ということを理解する場合にも、きっと大変に重要なこととなるでしょう。
 では、私の経験をお話します。
 私には現在、高校生の息子がいますが、彼が3歳の時の話です。

 以前、私の知人が私に「僕が電車の中などで声を出さずに心の中で歌を歌っていると側の人が同じ歌を口ずさむことがある」と言いました。
 ある日、私は当時3才の私の息子と家で遊び疲れ、二人で並んで畳に寝転んでいたときに、ふとこの知人の話を思い出したのです。
 私は、声を出さずに心の中で「犬のお巡りさん」という歌を歌ってみました。するとなんと! 間もなくして、声を出さないで心の中で歌っている私と一緒になって、息子は「犬のお巡りさん」を、声を出して歌い、私の心の中の歌と合唱しだしたのです。


 それから6年後、こんどは彼が9歳の時の話です。

 ある日の夜、家にいた私はなんの気なしに私が寄稿をしている「宇宙の理」という雑誌のバックナンバーを手に取りました。そしてあるページを読み始めました。それは日本人はいつも我慢をして生きてきて自分を生きていないこと、自分を殺すことを美徳と思い、いつも人と同じように行動しようと努めていることなどを指摘した私の文章でした。
 そのとき息子は、私が本を読んでいると知らずに隣の部屋で蒲団を被って横になり、眠ろうとしていたのでした。しかし突然、息子は蒲団を剥いで立ち上がり、隣の部屋から私にこう問い掛けてくるではありませんか。
 「お父さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」「あのね、日本人っていうのは自分のしたいことをしないで我慢している人たちが集まってるの?」と……。
 これは息子が私の想いを受けて「日本人っていうのは……」 と感じたのです。9才の子供の発想ではありません。

 先の私の心の中の歌と息子の歌(肉声)の合唱の場合は、私が心の中で歌を歌っているとは知らない息子は、自分の意思で歌を歌いだしたと思っているわけでが、本当は私の想いが元で歌いだしたのです。
 また、日本人は周りを気にしていて自分を抑えてしまうという現実を、私が自分が書いた文章を読みながら再確認しているという、私のマインドの思考をインスピレーションとして受け取り、さも自分が考えているかのように(否、自分が考えたことであることには違いない)、息子自身がもった疑問として私に質問してきというわけです。
 そのときの息子は一体、誰だったのでしようか?

 親と子は遺伝子を共有するので、肉体ができたときに作られた光の体の意識も通じ易いと考えられます。ですから、親が子に与える影響からは、親が常に何を考えているかの責任は重大なのです。


魂について

 キリスト教はイエスを唯一の神と定めてしまったので、キリスト教信者は、人は神ではないと思ってしまうようです。

 あるとき日本在住のアメリカ人女性と「人は神」ということについて話をしていて、私がイエスの言葉に触れ「イエスはあなたの中に神の国はあると言いましたね」と言うと、彼女は「それは人の中に神の国があるということであって、人が神であるということとは違う」と応えました。欧米人に対しては「人は神」などとは迂闊に言ってはいけないようです。

 確かに「私は誰か」と考えたときに、自分を現在意識としてとらえるか、潜在意識までも含めた魂としてとらえるか、その中でも純粋な魂の部分としてとらえるか、あるいはもっと高次のスピリットとしてとらえるかで、人によって「私」は異なるのです。今は死語になりましたが魂も厳密には「魂魄」というように分けられていました。
 つまり魂にしても、人それぞれが魂にどのような概念を加えもっているかで、それぞれの「自分」のとらえ方はまったく異なるのです。

 一般的には、それでも魂は高次元の自分の代表的な呼び方と言えるかもしれません。ここでもそうとらえていただきたいと思いますが、ほとんどの人は魂と霊をごっちゃにしています。 日本語の魂も欧米でいうところの「ソウル」とはやや意味合いが違うようです。ニュー・エイジでは高次元の自分をソウルと呼んだり、それとは別のものとして「ハイヤーセルフ」という呼び名で呼んだりもします。あるいはこれらよりさらに精妙な波動をもった、肉体をもたない意識を「スピリット」と呼んだりします。スピリットになると直接肉体をもつ経験をしません。そしてこのスピリットは日本語になると単に「霊」と訳されて場合によっては幽霊レベルにまで次元を落としてしまったりもします。
 考えていると何がなんだか分からなくなってしまいます。

 とはいえ、ここでは「魂」という言葉で神の領域の自分、本当の自分を表したいと思います。  このように普通は魂より上が神の意識であり、生まれ変わるのも魂であるという考えが日本では一般的です。
 しかし、生まれ変わるのは魂ではなくスピリットが魂とつながって人生を経験する(エマネーション)という考えもある ようなので、その方はどうぞ、この書で以後いうところの「魂」を「スピリット」に置き換えて読み続けていただきますようお願いします。

 私は外国人の方と精神世界について話す機会が時々あるのですが、言葉が作る誤解が多いことに困ってしまいます。
 日本語の「真理」も「真実」も英語ではTruthと訳されますが、真理と真実は明らかに意味を異にします(もっともこれなどは日本語で話すのも大変なことなのだが)。簡単にいえば真理は(前章で述べたように)一人ひとり異なり常に動き変化します。それに対し真実は不変であり普遍です。私たちは、絶対普遍の法則のことも含めて真理と呼ぶことのほうが多いのかもしれませんが、それは真理と真実をひとつにくくっているということになります。厳密にはその場合の真理には二つの意味が内包されていることになります。

 英語のMindもHeartも、日本語では両方が「こころ」と訳されることがありますが、私はマインドは頭(脳)をイメージし、ハートは心(胸)をイメージします。どちらかというとマインドは思考と感情(エモーション)に近く、ハートはもっと精妙な意識や感情(フィーリング)に近い領域にあるように私は感じています。
 人との会話中に「私」と言いながら自分を指すときには自分の「胸や胸と首の付け根の辺り」を指す人が多いものですが(ときどき鼻の辺りを指す人もいますが)、これは潜在的に本当の自分が誰かを知ってのことと思います。
 予断でしたが、ともかく、言葉によるコミュニケーションは、互いが言葉の意味を異にしているのに、互いが分かりあったようにうなずき合っていることが多くあります。でも本当は、まったく分かり合っていない場合があるのです。


言葉は物事を制限する役割をもつ

 現在意識や潜在意識、無意識、魂の意識など、この本でもある程度、言葉によって概念化してしまいましたが、本来はこのような概念はもたないほうが真理への近道なのかも知れません。固定されるほどに真理は真理それ自体から遠ざかってしまうからです。なぜならば、言葉は物事を制限することでコミュニケーションの役割を果たしますが、真理は制限されること、固定されることを嫌うからです。

 例えば、私は男性で、年齢は幾つで、家族構成はどうで、身長は、体重は、趣味は……。と続けば、私はどんどん具体化されます。しかし、肉体を取り除いた真の私の実在からはどんどんと離れていくのです。
 これは換言すればこういうことです、目の前に目に見えない真理があったとします。でも、その真理に水をかけて、さらに砂をかけたら真理が姿を表しました。しかし、見ているのは真理でしょうか? もちろん違います。真理が着ている砂なのです。私の実在と私が着ている肉体と同じ関係です。

 私たち三次元の人間は、自分たちの実在を直接感じとることができないので、五感という三次元レベルで接触してお互いの実在のエネルギーを感じとろうとしているのです。
 言葉も、視覚や聴覚で読み取られます。書物など、言葉でものごとを説明するものも同じです。言葉は現人類には最も手軽で便利なコミュニケーション手段です。しかし、残念ながら言葉はこのような形而上のことを具体的に表そうとしたとき、実在を直接語れないという宿命をもちます。これは避けられないことです。
 双方が同じ理解をしているにもかかわらず言葉に出してしまうと噛み合わない、ということもよくあることです。

 そんなわけで、この本を読み終えたときも自分の霊的概念を含め、一度すべてを白紙に戻してから、真理として自分の中から戻してもらうという作業が必要なのかも知れません。もしも明日、「魂は人の足の裏にある」という人と議論する羽目になっても、喧嘩にならないためにも……。

 魂という使い古された言葉には人それぞれのいろいろな概念が付随していて、共通の理解はなかなか難しいものですが、この書の中では敢えて魂を真実の私として、私たちが生活する中で考えたり悩んだり、悲しんだり怒ったりしている意識ではなくて、無意識の領域にあって神から分かれた純粋な意識を受け継いだ「ピュアな私」としてきました。そして以後もそうさせていただきます。
 いずれであれ、この神の意識レベルを自分と位置づけることが「私は神」を思い出すことの第一歩となります。


「私は神」を信じる者は救われる

 それでは一体、私とは誰でしょうか……?
 多分、ほとんどの人は自分の表面意識と、事ある毎に表面に顔を出す潜在意識が自分の全てだと思っています。魂を含め自分を意識している場合でも、魂とこれらの意識との区別をつけていません。つまり人は平均的に、神ととらえるにはあまりにも荒い波動でしか自分を意識できないので、自分が神などとは考えられなくなってしまっているのです。

 さらに映画「マトリックスのコード」(第三章参照)に例えられるように、自分に絡んでいる霊線を通して、波長を合わせて働きかけてくる邪悪な存在の意識(映画では人工知能の働きかけ)までも自分と思っているのが現実なので、とても自分が神であると信じて、自分の創造力を信じて生きることなどできないのです。実際のところ、ほとんどの人間は邪な意識の傀儡(かいらい)と言っても過言ではありません。
 しかし、自分を神と位置づけられないこの観念こそが、邪な意識とつながるコードを断ち切って、自分を神として行動させることにブレーキをかけているのです。
 映画マトリックスでは、主人公のネオがメシアとしてその役割を果たし人類を救いましたが、現実はそんなに甘くはありません。現実の地球では自分のコードは自分で断ち切らなければなりません。 そして、・・・

 自分が自分のメシアとなるのです。

  「私」を低い意識としてとらえていると、いつまで経っても「私は神」を体現することができないでしょう。これからの五次元に向かう新しい地球では、自分は神の意思とつながり、神の意思を地上で演じることが人間の役割であるということを思い出して、それを明確に理解して行動していく必要があります。そのためには神の意識としてはそぐわないと思われる潜在意識を心を洗うことで天に上げないと、自分が光とつながって光と共に生きることが不可能となるでしょう。
 自分を神と信じて行動できるような情報は、私たちの潜在意識というヴェールの向こうにあるからです。


『インディ・ジョーンズ』の目に見えない橋(アビスの河)

 さて、この章の最後に、ジョージ・ルーカスの『インディ・ジョーンズの最後の聖戦』を譬えに神を信じることについて書いてみます。
 ジョージ・ルーカスが制作・監督をする『スターウォーズ』などには、スピリチュアル的に見るといろいろなヒントが隠されています。特に『スターウォーズ・エピソード1』はよくできている作品でした。ジョージ・ルーカスの作品には21世紀に向けてのメッセージが多く入っています。

 昔から伝わるイスラエルの智慧である神秘的伝統―「カバラ」の教えの図式である「生命の樹」は、多くのセフィロート(道)で構成されます。
 セフィロートはいくつかのトライアングル(三角形)を構成します。最上のトライアングルは神の世界であるスピリットの世界のセフィラー(道)をもちます。神の「愛」のセフィラーである「ビナー」と、神の「意思」のセフィラーである「チョクマ」が左右にあり、最上に至高の三角形の頂上である「ケセル(クラウン)」があります(「セフィロート」は「セフィラー」の複数形)。

 その下の三角形は人の(と言っても魂レベルの)愛と意思の世界です。カバラを学ぶ者が最後に神の愛を勝ち取りカバリストとなるには、神にすべてを託し全面的に神の愛と意思を信じることで最後の神への境界を超え、神のトライアングルへと進まねばなりません。その魂とスピリットとの境界に立ちはだかるのがアビスの河です。
 前章で紹介したロッキー・マウンテン・ミステリースクールを運営するグッドニー・グドナソンさんは、映画『ハムナプトラ2』の終わりのほうの場面でイムホテップ役の主演助演者であるアーノルド・ヴォスルーを飲み込んだ河は、アビスそのものもだと言います。

 私がアビスを思うとき、思いだすひとつの映画があります。それがジョージ・ルーカス制作の『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』です。この映画の見えない橋を渡るシーンは、見ものです。ここでもアビスが別の形で現されています。

 この『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』という映画は、永遠の命を得ることのできる聖盃を探すナチスに、ハリソン・フォード演じるインディ・ジョーンズとその父親を演じるショーン・コネリー親子が巻き込まれるという物語です。
 物語の終わり近くで、聖盃のある入り口の近くでインディの父親が銃で腹を撃たれます。永遠の命を授かる聖盃で父親の命を救うためにインディに聖盃を取りに行かせようと、ナチスがたくらみ、インディの父を撃ったのです。インディは、聖盃とそこに入れる泉の水を求めて危険に立ち向かいます。ところが、その聖杯のある場所に行き着くには、三つの試練のある関門を通り抜けて行かねばなりません。
 それぞれの関門にはそれを抜けるためのヒントがあります。

 一つ目の関門を抜けるヒントは、
 「悔い改める者だけが救われる」(反省するものが救われる)です。

 二つ目は
 「神の名を呼ぶ者だけが通れる」(神の存在を信じるものが救われる)です。

 この二つの難所を通り抜けたインディは最後の難所に向かいます。
 先の二つはヒントの謎を解き、その通りに進めばよかったのですが、最後は違います。ヒントを解くことで得た答(論理的知識や情報)だけではクリアできないのです。神に全幅の信頼を置き、神と一体である自分を信じて進まねばなりません。

 三つ目である最後の試練を成し遂げるヒントは、
 「ライオンの頭から跳躍する者だけがその価値を認められる」(カバリストとして神に認められる)です。

 ライオンの彫刻を背にし、聖盃のある方に行かねばならない場面でした。ところが、その先は橋のない絶壁なのです。
 腹を撃たれ、インディから離れ横たわる父親は苦しみの中で息子への想いをこう呟きます。「神を信じれば大事にならない」と。
 断崖でしばしたたずむインディは、父のインスピレーションを受け「神を信じて進むしかないな」とつぶやき、見えない橋がそこにあることを信じて一歩を踏み出し進みます。すると、足は空中に止まります。見えないはずの橋がそこには確かにあるではありませんか。
 最後の最後に必要なものは「恐れを捨てて神に全幅の信頼を置くこと」でした。
 そして、神と共にある自分の判断にも・・・・・・。

 このようにして私たちは先ず、神の想いを地上で演じ始めることになるのですが、そこに到るまでには幾多のテストをクリアしなければなりません。
 私たちは誰もが神の御使いです。今、神は、私たちがどれだけ神の御使いとして天の仕事を任せられるだろうか? どれだけ自分が神の子で、神の想いとつながることができると信じて生きられるだろうかと、私たちに日々、テストをしているのです。
 神は恐れが反映されるテストの環境を仕組んで、そこに神の想いを送り込みます。
 私たちの内面を通じて。


  Amazing Grace ♪


(前略)

 'Twas grace that tought my heart fear,
 私の心に恐れを教えてくれたのは神の恵みで

 And grace my fears relieved.
 恐れを解いてくれたのも神の恵みだった

 How precious did that grace appear.
 The hour I first believed.

 私が(神を)信じたそのときに神の恵みは素晴らしきものとして観じた・・・・
 (後略・・・・多くの危険、試練を乗り越えてきたとき、と続く)。


 「
Amazing Grace(素晴らしき神の恵み)」 より、筆者訳


 私たちがどれだけ自分の中の神の想いを信じて前進することができるか、その審判のためのテストが今、常に私たちに与えられているのです。その最大の試練が、間もなくはじまることでしょう。
 神を信じるとはすなわち、「与えられている現象はすべて正しきものとして成長のために神が仕組まれているもので、愛をもってそれを乗り越えることによって必ず私たちの成長が約束されている」「物事は必ず良い方向に進むと約束されている」ことを信じることなのだと思います。
 神とつながる第一の条件は恐れないことで、恐れは神とつながった糸を即座に切断し、別の想いの介入を許します。 『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』の「見えない橋」は、「神を信ずるものは救われる」ことをよく表したものでした。