第三章 映画「マトリックス」に観る正しいこと


文化作品に込められた宇宙からのメッセージ


   「大きな出会い」のための準備


 多くのひとたちの神の法に対するいちじるしい無知が、これら(近未来の地球の)痛々しい状況を生み出す原因であり根である。このまま放置しておけば、それはついには全滅にまで至りかねない。
 だから、われわれはきみたちのすべての国の、できるかぎり多くのひとたちに正しい教えとみちびきの霊感をメッセージとして送っている。受け取る人の個人的な信仰によって、なかにはかなりわいきょくされてメッセージが伝わってしまうこともさけられない。それがさらに混乱と失望を生み出す。それでも、少しずつ、日に日にすべてはっきりとしていくことだ。
 文学作品や音楽、映画やそのほかいろいろな文化的な表現にも、インスピレーションを与えている。メッセージの普及に役立てられるものなら、なんでも利用している。これは意識変革のためのひとつの愛の種であり、「大きな出会い」のための準備でもあるんだ。

  『もどってきた アミ』(徳間書店)、宇宙の地球救済計画の司令官の言葉より  



『マトリックス』の預言


そこにいるのは分かっている。
お前たちを感じている。
お前たちは恐れている。
私たちを、そして変化を。
未来は分からない。
この戦いがどう終わるのかお前たちには言うつもりはない。
しかし、どのように始まっていくのかは言うことができる。
この電話を切った後で、
お前たちが見せたくないと思っている世界(新しい地球)を人々に見てもらう。
お前たちの支配のない世界だ。
そこには束縛もコントロールも存在しない。
なんの境界も限界もない世界だ。
すべてが可能となる世界だ。
私たちが行こうとする世界(新しい地球)。
それはお前たちとの決別の選択を意味する。

『マトリックス』より(筆者訳)


 上の文章は1999年に公開されたワーナー・ブラザーズ配給の『マトリックス』という映画の最後に、この映画の中で人類を支配していた人工知能に打ち勝った救世主である主人公ネオが、彼らに勝利宣言し、これからやってくる地球の秩序 ― 何の束縛も境界も限界もないという「新しい地球」の秩序 ― の預言を語ったセリフです。
 新しい地球の実現のために戦う人々を描いたこの映画には、新しい地球の生き方を示唆する真理の暗号が一杯です。そんなヒントが至るところに隠されています。
 その暗号は余りにも多いものですから、ここでは特に「正しいこと」について示唆しているシーンについて焦点を当ててふれてみます。
 その前にこの映画を観ていない人のために、映画『マトリックス』のストーリーを簡単に解説しておきます。


〈映画のあらすじ〉

 
21世紀のはじめに、人類(映画の中の人々)が開発した人工知能が発展を遂げ意思をもちました。人工知能は人類に代わって自分たちが主導権を取り人類を配下に置こうと反乱を起こしました。
 当時のコンピュータは太陽光をエネルギーとしていたため、人類は太陽光を遮りエネルギーを遮断するという対抗手段に出ました。しかし人工知能は太陽光の代わりに人体から出る熱をエネルギー源とする策を取り、人類は人工知能に敗北しました。
 人間はバイオメカニカルの昆虫内に産みつけられ、コンピュータとチューブにつながれ、死ぬまでカプセルの中で羊水に浮かぶ胎児のように栽培され、人工知能のエネルギー源とされていました。

 映画に写し出される世界は、そんな人間たちが夢の中で見るマトリックスと呼ばれる、想いの反映としての幻影 ― 現象界なのです(現実の私たちの三次元社会も、私たちの内面の反映として映し出されている現象界)。映画の中の世界で実在の人間は、カプセルの中で眠っています。
 しかし、人間たちはマトリックスに映し出される世界を現実だと思っています。映画の中での人工知能は現実の社会での 邪 な霊達に比喩されています。すなわち、霊的な世界から意識の波長を合わせて(マトリックスのコードを通じて)人の行動を霊的にコントロールしている存在に比喩されています。

 映画での一般の人々は、ほぼ全員がこの邪な意識である人工知能に意識をコントロールされている設定です。現実のほとんどの地球人と同じように、邪霊に意識を操られていることにまったく気づいていないのです。

 夢の世界は1999年、人々は仕事をし、怒り、食べ、愛し合います。しかしそれは人工知能の電気的刺激によって造りだされた「マトリックス」と呼ばれるバーチャル・リアリティ(仮想現実)の世界でした。現実の今は、2199年頃……。

 この仮想現実の造られ方(邪霊に操られた人間の想いが現実を造ること)に気づき、自らマトリックスのコードを断ち切り、現実とマトリックス間を、通信回線を利用して行き来しながら人工知能と戦っている人たちがいました。モーフィアスをリーダーとする彼ら光の戦士は、預言者(Oracle)が語った「救世主(The one who saves the world)」と呼ばれる人物の出現を待ち望んでいました。モーフィアスはその人物を探し出しました。その人物はコンピュータ・プログラマーとしてニューヨークで働く「ネオ」と呼ばれる人物でした。

 彼こそが人工知能の人間支配から自由を取り戻す救世主でした。
 映画はこの現象界(マトリックス)を主な舞台とします。「起きてもまだ夢を見ているよう」と言うネオは、真の自分に目覚め始めた人間であり、この映画での救世主であります。しかしまだ、自分が救世主であるなどということは夢にも思っていませんでした。
 光の戦士のリーダーであるモーフィアスはネオを見出した後、何とかネオにそのことを思い出してもらおうとします。ある日、モーフィアスはネオの気づきのためにネオを預言者のところに連れて行きました。



預言者の嘘

 次の会話は預言者とネオがはじめて出会ったときのものです。



預言者 「あなたには、どうしてモーフィアスがここに連れてきたのかが分かる」
ネ オ うなずく……
預言者 「あなたは自分が救世主だと思う?」
ネ オ 「正直言って分からない」

預言者
「(救世主であるということは)恋をしているようなものよ」
「だれにもあなたが知っているようには、『あなたが恋をしている』などと言うことはできないわ」「自分で自分の体の中を通して実感するものよ」
 ……「ではちょっとあなたを見てみましょう」(略)……
 「……あなたは既に私が何を言おうとしているかを知っているわ」……
ネ オ 「……私は救世主ではない」
預言者 「(救世主でないことは)残念だわ」「あなたには(神から贈られた)才能があるわ」
 「だけど私にはあなたは何かを待っているように見えるわ」
ネ オ 「それは?(私が何を待っているって?)」
預言者 「(それが分かるのは)来世かもしれないわ」……



 このセリフには非常に神妙な意味がこめられています。
 実のところ、ネオは救世主でした。そして預言者は当然そのことを知っていました。しかしそれは教えることができませんでした。
 預言者が恋に例えて言うように、救世主であれ何であれ、自分の役割ともいえる使命が何であるかということは人に言われて分かるものではないからです。自分の中を通じて実感しなければ真の理解にはならないのです。
 ですから右記のような遠まわしの表現、すなわちヒントとなるような言い回しをせざるを得ないのです。自分で思い出すという真の理解なくして、その使命を全うすることはできないのです。
 ここで預言者が仮に「あなたは救世主よ」と真実を言ったところで、ネオはそれを受け容れる用意ができていないので、自分が救世主だと実感できるわけではなく、それではプレッシャーを受けてしまい、あるいはうぬぼれて天狗になってしまい、救世主の役割をまっとうすることができないことを預言者は知っていました。
 そこで預言者はこうヒントを付け加えたわけです。 「あなたには(神から贈られた)才能があるわ」 「だけど私にはあなたは何かを待っているように見えるわ」……と。
 この一連の預言者の言葉を私なりにつなげまとめてみますと、

「あなたには救世主としての才能が、神様からの贈り物として備わっているのよ」
「それなのにあなたは自分でそれを見つけようとしないで、誰かが自分に教えてくれるのを待っているように見えるわ」
「そんなことでは、いつまでもそれを確信できないので、答えは来世までやってこないわ」
「恋をするのと同じように、自分の真理は私から聞き出すのではなくて、自分の中にある光からダイレクトに感じるものよ」
「私はあなたには言葉しか与えられないの」 「だから私には真理という充分な答えを直接あなたに与えることはできないの」
「そしてあなたの使命も」……


嘘も方便

 「真実」と「真理」とは異なります。真実は絶対であり、かつ普遍的な決定事項であり変化することはありません。
 ですから他人に言葉で教えることも可能です。しかし、真理を教えることはできません。できるのは真理の訪れの道を示唆してあげることなのです。
 歩くのは自分です。この映画でもモーフィアスはネオに対して繰り返し繰り返し言います。

「扉までは連れて行くが、扉は自分で開けなければならない」
と。

 預言者はネオが真理の訪れを感じることができるようになるようサポートするために、真実とは異なること ― すなわち救世主ではないという「嘘」を付いたのです。そして、ここで解答を与えなかったことで、後でネオは自分が救世主であったことを、預言者を通してではなく自分を通して思い出し、確立していくこととなります。
 預言者のみならず、ネオを取り巻く人々の言動は、ことごとくネオにとって「真理へのいざない」となっていたのでした。その過程が映画ではとてもよく描かれていました。

 嘘をつくということは、常識では悪いこととされています。そして現代では悪いことは正しくないこととされてしまいますが、結果としてネオに真理を運び、気づきをもたらした預言者の嘘は「正しいこと」となったのです。進化・成長に結びつくことが正しいことであり、賢者は成長に必要なことだけを言うのです。
 預言者との対話を終えた直後のネオに、ネオの帰りを外で待っていた光の戦士のリーダー、モーフィアスはこう語りかけます。
「預言者が話したことは君のためのものだ」「君だけのものだ」「預言者は必要なことだけを言う」……
 モーフィアスはネオに「預言者がネオに何を告げたのか」を聞かなかったのです。
 それは、預言者の言葉はネオにとっては必要であっても、モーフィアスにとっては必要でないことを、モーフィアスは知っていたからです。

 この、成長に「必要なこと」こそが、成長へのいざないであり、正しいことなのです。
 預言者はネオにもう一つの嘘をつきます。 「モーフィアスかあなたのどちらかが死ぬわ……」と。
 実際には二人とも生き延びたのです。そして預言者はネオとの会話の最後に、自分が言った「あなたは救世主ではない」との預言にこだわるなと言うかのように、大切なキーワードを告げるのです。
「運命を(私がいま言った預言も)信じてはいけないわ。人生は自分でコントロールするのよ」




宇宙には善悪はない

 空を飛ぶ未来人が活躍する五次元を示唆する『マトリックス』という映画は、「暴力シーン」のあるアクション映画でもありますが、もしも暴力シーンは悪であるといった善悪の固定観念をもっていたり、「たかがハリウッドのアクション映画ではないか」「真理の探求者はそんな映画は見ない」と、娯楽映画をバカにして良い子振っていたりすると、この映画に隠された素晴らしい神の意思を観じ取ることができないでしょう。
 宇宙は多くの人に早く真理の訪れを自分の中から聞いてほしいために、このような人気映画を使ってそのヒントを置いていきます。これは神と製作者と、そして何よりも私たち観客予定者との共同創造なのです。
 他にも、スターウォーズ・エピソードT』に代表されるジョージ・ルーカス制作の映画 などにも、真理へのいざないとしてのヒントが散りばめられています。
 真理を受け容れるためには心を自由にして、善悪のこだわりから解き放たれなければなりません。

 第五章で詳しく述べるのですが、私たちには神と合意した成長の方向性があります。 私たちの意識がその方向に進むことを進化と言い、進化に向けた運動を正しいことと言います。結果として正しく進めばいいのであって、その過程についてはある程度、自由意思に任されています。映画『マトリックス』で預言者が言ったように「人生は自分でコントロールするもの」であり、現象的にこうしなければならないという決まり事は何もありません。正しい、正しくないということは決め事の中には一切存在していません。

 「正しかったか=進化したか」の結果はすぐに出てくるわけではないので、
 人間には正しいことはまず判らない
のです。

 ですから、「神と意識を分かち合って今を生きること」が、「正しいことを分かって生きる」ということ なのです。
 それが「今を生きる」ということであり「あるがままを生きる」ということであり、結果として正しい道を生きていることと成るのです。

 これからの地球で大切なことは、良い(善)悪いではなくて、正しいか間違っているかなのです。人知を超えた宇宙には善悪は存在していないのです。



ゴールへの道

 私たちの人生の方向性は、生みの親である宇宙の創造神によってデザインされているので、「神として完成する」というゴールの設定は変えることができjません。しかし私たちの人生をどのように歩むかは、私たち人類の自由意思に委ねられているのです。
 42・195キロのマラソンに例えてみれば、マラソン競技ではコースはもちろんのこと、いろいろとルールの制約があります。
 なぜならば勝敗を争うマラソンは競走なので、競技者全員が同じ条件であることが必要だからです。
 しかし、人生は競走ではありません。人のことを気にして同じように歩むことを規定していません。

 本来人間は一人ひとりがそれぞれ既に確立されている存在なので、人と比較するという立場をとるべきではなく、ハンディキャップという概念も厳密には存在しません。
 (ハンディキッャパー(身体障害者) の方に心の清い人が多いのは、すでにハンディを超える高い魂の持ち主であったという見方もできるのです。 その意味からは、本当のハンディキッャパーは健常者なのです)

 ですから、出発地点とゴールは決まっていても、その道のりをいつ出発しようが、歩こうが走ろうが、自転車で行こうが自動車で行こうが、苦しい道を選ぼうが楽な道を選ぼうが、自分で考えて自分で行く限りはすべて許されているのです。
 ゴール地は決まっていても、道のりは決まっていないので、コースを変更したり、寄り道をしたりすることも許されています。
 実はここにこそ、人が神として自立して歩くことの学びがあるのです。

 それが実現すると人々の自由と自由がぶつからない新しい地球本来の秩序が完成します。
 映画「マトリックス」のラストで新しい地球を預言する中でも言われていたように、新しい地球には一切の束縛もコントロールもなくても平和を保つのです。不思議に思われるかも知れませんが、これは未来のあらゆる組織などでも同じなのです。



「法」や「常識」は良いことではあっても正しいことではない

 私たち人類は長年の経験から、して良いこととしてはいけないこととを別けてきました。それが私たちの常識となって、慣習となって伝えられ、継承されてきました。ところがそういった常識を守らない人が出てきたり、見解が人によって異なっているために、私たちは混乱を避けるために法やルールを制定し、その約束事の下で秩序を運営してきました。それは私たちの我が儘を制御・統制するものとして制定されました。
 法治国家が当たり前になって法による規制は日々多くなり、最低限してはいけないことの最低ラインは我が儘に準じて下げられて来ました。
 しかし、して良いことと悪いことは全部、人間の判断の下に定められてきました。法律の判断であれ、社長の判断であれ、親の判断であれ、そして議会制民主主義下の判断であっても、実際はすべて人間が決めてきたことです。これらは良いことではあっても正しいことかどうかは別問題です。



洗心

 国で、職場で、学校で、家庭で、あらゆる組織で良いこととしての様々な規制、管理、教育、コントロールが行われるようになった一方で、規制緩和が叫ばれ、今一度社会が自由を取り戻し、自由な創造力を施行できるようにしないとかえって社会は活性化しないことにも気がついてきました。この矛盾を人類は解決できていません。肝心なことに気がついていないからです。 自由意思を尊重し、かつ調和を保つことができる「環境設定」を私たちの「心の中」にしないと、規制はやたらに緩和できないということなのです。
 しかし、人々の潜在的なエゴがそこに踏み込むことに無意識に拒否反応を示します。その「環境設定」とは、心のエゴを洗い流し、本当の自分とつながることだからです。
 これを「洗心」と言います。

 これを映画『マトリックス』の中のセリフに当てはめれば「自らの意思と決断で、マトリックスのコードを切断しなければならない」ということです。
 口で言うのは簡単でも、これができずに地球人類は何千年もの間、三次元の波動を超えることができなかったのです。
 なぜならば、エゴのコードを心に巻きつけられていることに気づいていない現代人にとっては、エゴも自分なのです。だからエゴを振り切ることは自分を否定することに思えてしまい、洗心は現代人が最も苦手とすることとなっているからです。

 洗心とは、自分の心を観てその至らないところを謙虚に認めて是正していくという、心のふるさとともいえる良心からの発動に他ならないのですが、人間のエゴがそれを許さず、何千年の間にわたり人類の良心は、その想いを塞がれてきたのです。
  21世紀はいままさに、エゴから開放される「時」なのです。



自己確立(霊的自立)


 かつてモーゼが神から十戒を受けたとき、人を殺す人がいました。自己保存心から人に嘘をつく人がいました。物を盗む人もいました。それで神はモーゼを通じて十の戒めを与えたのです。
 現在の私たちの社会を取り仕切る法治国家という秩序体系は、実は三千年前と何ら変わっていないのです。三千年前と比べて文明の進化は目を見張るものがありました。それと比べて心の進化はひとつの次元の節目(他人が作った法によって自由を制御する秩序)すら超えていないのです。
 自由と規制の関係は、常に人が自由意思の使い方を習得したレベルに応じて規制の量と強さは定められ、人が真の自由性を取り戻すに従って規制は緩和されていくことが理想なのです。

 ですから私は、規制に頼る秩序体系を今すぐ変えたほうが良いという理想主義者ではないのです。そういった規制に縛られた秩序体系を保たねばならない人類の心を洗い、心を変えたほうが良いと言うのです。もっと言うと、「心を変えたほうが良い」のではなくて、社会秩序を根本から変えるには「それしか方法がない」のです
 心と現実は写し鏡のような相対関係にあって、この法則に則って私たちが生きる相対界である現象界の現実は造られているからです。宇宙の秩序の自由性も、人の心がもつ自由の調和度に合わせて定められるものなのです。
 私は三次元とそれ以上に精妙な波動の世界との根本的な違いはここなのだと確信するのです。高次元社会と低次元社会との差は、素晴らしい憲法や法律があるかないかではないのです。

 外の秩序に頼らなくとも、自分を信じて、その内なる神聖の自由意思と共にあるがままに生きることことのできる人々の集う社会 ― すなわちその星に住む人々に霊的自立である「自己確立」が成されているかどうかだと思うのです。
 神から分かれた本源の愛深き自分とつながり、一人ひとりが自分を取り戻したとき、私たち人類全体の真の秩序と調和が確立するのです。

 さて、先の小見出しで挙げた「洗心」についてはサラリと書いてしまいましたが、実は私たちが新しい地球に移行するにおいてとても大事なことなのです。
 それと同様に「自己確立」も新しい地球で生きるための基本となるでしょう。
 これらについては独立した章をつくってもいいぐらいなのですが、しかしそれほど重要であればこそ、あえてそれをせずに、この本の「はじめに」から「おわりに」まで一貫して貫かれているテーマとなったのです。

 自分を確立するということは、一言で言えば「自立」ですが、三次元で人の世話にならずに独立して生活を送るということではなくて、意識の自立、霊的自立を意味します。


 ※次にここでは自分を確立することの重要性について、人の体を譬えにしてできるだけ分かりやすく説明してみたいと思います。
 まず身体各部の役割ということについて考えてみます。

 私たちの身体は、五体から指の一本一本まで一つひとつが意味をもちます。何ひとつとして無駄はありません。ですから身体のどの部分が優れていてどの部分は劣っているということはありません。すべて役割をもっていて「私全体」のために働いています。
 右利きの人は右腕を中心に手は働き、左手は右手の働きをサポートします。一見、右手が主役のようです。しかし、食事をするとき左手は「縁の下の力持ち」ならぬ「お椀の下の力持ち」です。

 ボクシングを考えてみましょう。(個の自由意思と全体との調和ということ)

 ボクシングで右利きの人は左足を前に出してファイトします。体も左を前にします。左手は相手をけん制するジャブを出したり、相手のパンチを払う役割として働いたりします。利き手である右手は攻撃を主体とします。
 そしてディフェンスにおいては右利きの人は左手を前に出して顔を守る(左利きの人は右手を前に出して顔を守る)というのが一般的でしょう。
 つまり、何においても左手は右手に準じているわけではなく、「危険!」という場において、左手は右手以上の犠牲心を発揮するのです。

 足と腕が力比べをしました。当然、足が勝ちます。では、足が腕より偉いのでしょうか。当然違います。役割が違いますからそれに準じて長所も異なるのです。
 耳は物を見ることができません。目は音を聞くことができません。口は匂いをかぐことができません。鼻は話すことができません。
 当たり前過ぎますか? 私の言っていることが……。でも実際には、人間もこれと同じなのです。しかし「但し書き」がつくのです、これには……。「霊的には」という。

 人間の体全体の形を他人と比べますと、手足・目・耳など一人の人間の身体の各々の部分を比較するのとは違って、みんな同じ形をしていますのでこれに気づくことができないのです。しかし霊的な存在として生きる人間にはそれぞれに異なる役割があり、その固有の役割にこそ人間の存在意義が込められているのです。

 ここでは更に人の固有の役割発見のために、自分を確立することの重要性について考えてみます。

 脳から発せられる情報は、いつもそれぞれのために異なるものとしてやってきます。先のボクシングで相手のパンチが顔に向けて飛んできたときに脳は左手だけに「手を上げましょう」という意思を発するのです。その意思を汲んだ左手が脳と同意して顔を守るのです。

 人が他人を気にして生きているということは、右手が、そして足が、左手の様子を見ていて、(自分の役割を忘れて)自分も同様に振舞おうとすることなのです。これがバランスを崩すのです。脳は足に対しては「しっかりと踏ん張って」あるいは「後ろに下がりなさい」という情報を出すかもしれません。
 この情報(エネルギー)の流れの示唆するところ、すなわち役割に沿った生き方に進むからこそ、天の支援がいただけるということを忘れてはなりません。

 さて、「脳」を「神」として「身体の一部一部」を「人間」としますと、神は人間に対して自分の役割を果たせるような情報を、あるときは直観として、あるときは人の言葉として、一人ひとりに気づくように示そうとします。そしてそれは一人ひとりが進化するための情報でもあるのです。さらにそれは、「人と同じことをしなさい」という情報ではないのです。

 これまでの説明からそれはむしろ「人と違うことをしなさい」というメッセージとしてやってくるということをきっとお分かりになっていただけるでしょう。ですからこの情報を受け容れることはとても勇気のいることとなるのです。人類一人ひとりの役割には同じものはないという前提から大げさに言えば、それは常に「前人未到」のことに着手せよということだからです。既存の知識や情報にはないことやこれまでの経験にはないことが多くあるのです。
 正しい情報は自分で探すしかないのです。しっかりと自分を確立しておかないと、この情報はなかなか受け容れることができないのです。

 この情報を「真理」と呼びます。
 真理とは神とつながった本当の自分の中から役割を果たすための情報や、成長をうながすための情報として、常に自分固有のものとしてやってくる異次元からのメッセージです
 すなわち、真理は人によって異なるのです。

 「今」に合わせて常に動いていて一瞬一瞬、変化しているものなのです。
 ここでまた繰り返しますが、映画「マトリックス」の中で預言者との対話を終えたネオにモーフィアスが語った、 「預言者が話したことは君のためのものだ」「君だけのものだ」「預言者は必要なことだけを言う」……という言葉は、真理は一人ひとり異なるということを意味しているのです。  次の情報は「自己確立」について語ったものです。
 第一章の最後にも抜粋しました ET地球大作戦(コスモ・テン発行)での「銀河カウンシル作戦本部」からのメッセージです。ちょっと長い抜粋になってしまいましたが、とても素晴らしいメッセージです。注意していただきたいことは、ここで言う「スピリット」とは魂よりさらに高次元にあり、肉体を着たことのない高次の自分です。  


 この作戦(地球を光の星にすること)には作戦概要および目的はあるが、具体的な戦闘計画はない。
 その理由はまず我々は戦闘行為に従事していないということであり、もうひとつの理由は、我々の行動のすべてはスピリットによって導かれており、スピリットの要請に応じて常に変化するということである。
 こういうわけで、諸君もスピリットの導きに従っていつでも計画を変更する覚悟が必要であり、突然召喚されて新しい任地に行く覚悟も必要である。
昨日は
真実であったことが、明日は真実ではなくなるかもしれない。
瞬間瞬間に何をするべきかについて、スピリットの指示を仰ぐようにしなければならない。

 スピリットに頼ることこそが諸君の使命である。同時に、スピリットに頼ることが作戦本部およびすべての味方の勢力と直接の電話回線でつながることでもある。
 (ここで思い出してほしいが、作戦本部は諸君の外部の権威ある存在ではない。我々は内面的かつ外面的なサービス機関であるが、諸君が何か相談したい場合には、外部の権威者に頼ることのないように強く勧告しておきたい)諸君がどこにいるべきか、何をなすべきかといった問題について、諸君のスピリット以外の何者も
*真実を伝えることは不可能である。

 霊的な自立こそ、意識の本質的な転換であり、作戦本部がこの惑星で実現しようとしていることである。
 霊的な自立はまた、諸君一人一人が個人的にこの惑星のために成し遂げると同意した転換でもある。準備万端の体制を整えておくように。
 目を覚まし、耳を覚まして聞いてもらいたい。
 今、スピリットの諸部隊が配置についているところである。


                       
*真実=この場合は筆者の言うところの「真理」】




クリシュナムルティの恐れ

いかなる人間もあなたに自由を与えることは出来ません。あなたはあなた自身の中に自由を発見しなければならないのです。 
   ―クリシュナムルティ

 この章の最後に、ホワイト・ブラザー・フッドから直接、ティーチャーとしてのイニシエーションを受け、世界に七つあるミステリースクールのひとつである「ロッキー・マウンテン・ミステリー・スクール(米ユタ州)」(日本では「トライオライト・RMMS」)を管理監督するグッドニー・グドナソンさんから聞いた話に私の情報を加え、クリシュナムルティの一つの物語を記します。というのはこの『マトリックス』という映画を観て初めに強く思い浮かんだのが、次のクリシュナムルティの経験だったからです。

 シドゥー・クリシュナムルティという少年がインドで見いだされました。クリシュナムルティは1909年、彼が14歳の時に神智学協会の設立者ブラバツキー婦人の秘書で次期会長になったアニー・ベサント女史によって見いだされました。
 偉人の多くがそうであったように、彼もまた学校の勉強にはほとんど興味を示さず、毎日のように教師の鞭を受けていたのでした。
 しかし神智学協会の人々にはクリシュナムルティが特別の人だということは容易に判りました。実際、彼は協会の人々の意識を高めたり、触れただけで人を浄化したり、様々のことを為すことができたと聞きます。ですから多くの人から彼はメシア(The World Teacher )であり、この星の新しいキリストだと言われました。
 クリシュナムルティは自分の内なる神に忠実でした。自分を知り、信じ、すべてを受け入れ、奉仕に生きました。怒りがなく、人を憎みませんでした。すべての学びの過程を既に完了している愛の人でした。たった一つの恐れを除いては……、それは、 「自分がメシアかも知れない」という他人からの評価に対する恐れでした。
 そんな悩みを打ち明けるべく、ある日、ある木の下で、成年クリシュナムルティは神様にこうたずねました。
「私はメシアですか?……」
 神様の答は、
「ノー」でした。
 そのとき彼はとても喜びました。彼にはもう留まるエネルギーはありませんでした(神智学協会は大変な騒ぎになってしまったそうですが……)。
 そのときクリシュナムルティは人が自分に被せた仮面を取り払い、自分自身の道を正面を向いて真っ直ぐに歩き始めたのです。


 クリシュナムルティは常に自分の中の理性と波長を合わせていたので、自分以外の判断を気にしている自分に、真の自由を感じることができなかったのです。彼の無意識(高次元の自分)は、「真の自由と真理は自分の中にある」ということを理解していたからです。
 自分の中からの神の声で、彼は「自分を生きる」という真の自由を思い出したのでしょう。  彼の無意識は、真理というものは自分の中にあって自分でしか認識できないものであるということを知っていたのです。真理は決して人から人に受け継がれたり教えられたりするものではなく、神ですら、人に言葉をもってして教えることのできないものであるということを……。

 神の言葉が真理なのではなく、神の想いに真理はあるのです。

 そして重要なことは、真理は一人ひとり違うからこそ、一人ひとりが神とつながって自分の中から自分の真理を発見し、自分の道を歩まなければ自分の真理は理解できないということです。
 また、真理は概念ではなく常に動いているので、「これが真理だ」と言った時点で既にそれは真理ではないのです。真理はそれぞれの生命が進化するために「今」、それぞれの心の中に現れて来るものだからです。  クリシュナムルティは真理についてこう語ります。

 真理は静止しているものではありません。それは固定した住居を持っているものではありませんし、終点や目的地もないのです。その反対に真理というものは、生きて活動しているものであり、敏捷(びんしょう)で活気に溢れているのです。どうしてそれに終点があったりするのでしょうか。真理が固定したのもであるなら、それはもはや真理ではありません。それは単なる一つの見解に過ぎません。真理は未知のものです。しかも真理を求めている精神(知識を伴う思考、あるいは潜在意識=筆者所感)は、それを決して発見できません。
 なぜかと申しますと、精神は既知のものから作られているものであり、それは過去の結果、言いかえれば時間の結果であるからです。あなたはその事実を自分で観察することができるでしょう。精神は既知のものの道具であるため、それは未知のものを発見することが出来ません。精神は既知のものから既知のものへと進むことができるに過ぎないのです。

『自我の終焉―絶対自由への道』(篠崎書林発行)より