第二章 「良いこと」と「正しいこと」の違い


愛とは何ですか?
成長とは何ですか?
良いこととは何ですか?
正しいこととは何ですか?
罪とは何ですか?

答えは全部、つながっています。


人生の答は決まっていない(学校教育の弊害1)

 私が都立高校を受験したとき、そのあとで新聞に入学試験の解答が載りました。
 当時は疑問にもたなかったものの、今このことを考 えると私はおかしなことだと首をひねらずにはいられないのです。
 新聞に載った解答は正に『模範解答』であるわけですが、この模範解答とは「答はこういうふうに書くのが正しい」ということです。私はこのこと、すなわち「答が初めから決まっていること」に首を傾げてしまうのです。
 多分、大半の人は「だけど、試験の答は決まっているものだろう」「試験とはそういうものだろう」と思われることでしょう。
 しかしこれは、私が高校の入試を受けて解答用紙に向かって答を書き込んでいたそのとき、「自分を離れたところで既に答は決まってい た」ということになるのです。これでは私は、「自分の外に既に存在していた答を追い求めていた」ことになってしまうのです。
 これはおかしいと思いませんか?・・・ 私はおかしいと思うのです。
 なぜならば私は思うからです。
 既存の知識には真理は存在していないと・・・。
 真の解答である真理は自分を離れたところからはやってこないと・・・。
 私は、9年間の勉学の結果のすべてがこのような決められた知識という形を中心として評価されることに大きな疑問を抱いてしまうのです。

 一瞬一瞬に自分の中から湧きいずる真理と共に生きるようになることが私たちの成長であり、自立なのに、今の教育はそれを支援しているとは言えないからです。
 もしも、学問と教育は別であり、学校とは「学問の場」であり「教育の場」ではないという前提があるのなら、ここでの話は平行線をたどるかも知れません。確かに学校教育を物理的・化学的な学問だけの場と割り切るのであればそうかもしれません。
 しかしそれでも、学問においても、発明家は常に自分で新たな常識を探求しているのです。そうしなければ新しいものは発見できないからです。

 学校が学問の場であると同時に教育の場でもあるという前提があって、教育とは自分で考える力を養って自立した人生を送れることを学んだり、他と調和して生きることを学んだりすることなどを含めるとしたのなら、今の教育は余りにも画一的な知識を押し込むことに偏向し、自分で考えて自分で行動することの育成からかけ離れてしまっていると思えるです。

 私は、人の自立心や自由意思を使った「創造力」を育むことは、教育の大事な目的になると思います。なぜならば、人の個性は誰一人として他人と同じことなどありえないので、自分の人生は自分の意思で考えて創造するしかないからです。
 たとえ教師であっても、生徒が人生をどう歩んで行くかというヒントを与えることはできても、具体的にそれを生徒に指示することはできないのです。
 教えられることは、真の自由意思の見つけ方と、その意思のままに自分の足で歩くことの大切さなのです。

 第五章で詳しく述べますが、人間が人として学んでいる過程は、自由意思なくして本能(神の意思の代替)に主導されている動物とは違って、神の意思とつながった自由意思を使って、自分の人生を創造することなのです。

 その過程で、初めは全体を司る一なる神の意識から分裂してしまったエゴの自由意思を使っているのですが、それは全体との調和がなく分離されたものであるために、混乱がいつも発生してしまうのです。そしやがて、人類は多くの混乱の体験を繰り返しながら「何かがおかしい」ことに気づき、本当の調和を願っている声に耳を傾け始めます。それが自分の中からきていることに気づき始めた人々は、自分の中へと意識を集中し始めます。自分の中の神の光とつながった生き方を模索しはじめるのです。

 自分の中の神とつながって生きる秩序で、みんなの神が調和して生きる時代がまもなくやって来ます(個と全体の神の所在は同じ)。
 この生き方は誰でも簡単に一夜漬けでできるものではありません。長い転生の経験を経て、ちゃんと調和の体現の試験にも合格しなければなりません。
 その最後の時がやってきたのです。現代がその時期に当たります。残念ながら今はまだ、水面下で幾ばかりかの人々がそんな生き方にチャレンジしているだけですが、この21世紀の早い時期にそれに気づいて行動する人が急速に増えてくることが望まれています。

 教育現場での子供にかかわらず、いま宇宙が「乗り遅れないように」と、新しい地球へ移行する地球人類に必須のこととして呼びかけているのは、正にこのことなのです。それは自分にとってもっとも頼りになる情報は自分の中からやってくると気づき、自分を信じて真っ直ぐに進む行動パターンを確立することです。 すなわち「自己の確立」なのです(「自立」と「調和」の関係については、第3章で分かりやすく述べます)。

 それなのに学ぶことのすべての答が初めから決まっているということになると、子供たちに自分の中から自分で答を引き出そうとする自立の習性を育めないのです。そして子供たちは常に答えを、模範解答を求めるように自分の外に向ける習性を身に付けることとなるのです

 そこに真理はないのです。



評価は教育に不可欠なことではない

 生きるうえで必要最低限の知識は学ぶ必要はあるでしょう。また事実を事実として見極める力をつけるという意味では、今の学校教育もそれなりに役立つとも思います。しかし問題なのは、今の教育を取り巻く環境が、評価抜きでは成り立たなくなってしまっているということなのです。そして知識第一主義で評価された結果に倣って、社会も人を評価しようとするのです。
 人を評価するということは教育に不可欠なことではないのに、評価があまりにも優先され、評価に余りにも意識が行き過ぎています。
 人に評価されることで合格したり出世したりする今の世の中の仕組みが、人の意識を常に「他人からどう評価されるか」という方向に向かわせてしまうために、自分を見詰めて生きる生き方ができなくなってしまうのです。「長いものには巻かれろ」で生きる日本人は特にこの傾向が強く、周りを気にしないで自分で新しいものを作り出すという創造力に欠けるのです。

 そして教育の社会として現れているということは、私たち一人ひとりの日常に存在していて、それが反映となって現れているということも忘れてはならないのです。
 親として、子供の兄弟姉妹と比べている自分、親戚の子と、クラスの子と、隣の家の子と比べている自分が確かに存在しているということです。
 社会は他の魂との共同創造です。けっして自分から離れたところで社会の現実が創造されているということはないのです。


光とつながるのに記憶は必要ない


 評価を明確で公明正大なものにするためには、答が決まっていることで評価するのが一番簡単なので、どうしても「知識があるか否か」での評価方法に拍車がかかってしまうのです。その結果、解答のほとんどが記憶から呼び起こされることになっているのです。
  このようにして教育は、本当の人間の価値を育むという方向性を見失ってきたのです。

 人間が生きる上で一番大切なことは、決まっている答を探すことではないのです。むしろ記憶という既存の知識は、人が自分の中の光とつながって自分の道を真っ直ぐに歩むためには、邪魔になることすらあるのです。

 私たちが本当に必要としている情報は、私たちが分裂する前に「唯一の私」として存在していた私たちの「魂のふるさと」からやってきます。元々一体である私たちにいま求められていることは、私たちの脳に記憶を詰め込むことではありません。
 既に大いなる叡智として私たち自身の中に存在している「ふるさと」へのアクセスなのです。そのとき、無限の叡智は淀みなく私たちに流れてくることでしょう。


相対評価から絶対評価へ(学校教育の弊害2)


 また仮に百歩譲って、評価が肯定されるものとしても、現在の評価の仕方には問題が残ります。
 それは、一人の生徒が日々どれだけ成長しているかという絶対的な評価ではなく、常に人と比べるという相対的な評価方法でほとんどの教育者は人を評価します(通信簿しかり入学試験しかり社内評価しかり)。そして親も、常に兄弟同士を比べたり、隣の子と比べたり、クラスの中でどの程度の成績かを一番気に掛けたりするものです。

 人と比較しないで子供たちを見守り、その子自身の成長を育んであげるという最も大切な視点がどこかに行ってしまっているのです。
 一番大切なのは、子供たちが昨年より今年、昨日より今日、どれだけ成長したかという絶対的な見地なのです。

 第一章で、「人と競うことで人は初めて成長し、通信簿のように人との比較ができて初めて成長が確認され、初めて人の評価もできると思っている人が意外と多い」と書きましたが、このような相対的な比較評価ではなく、本人自身が日々成長しているかというような、絶対的な見地から観て人を育むことが本来の教育の基本なのです。

 絶対的見地からは成長していなくても、他人が怠けて相対的に自分の順位が上がれば、果たしてそれは成長と呼べるのでしょうか。ほんのちょっと理性をもって考えてみれば、それは成長ではないことはすぐに分かるはずです。

 相対的に順位を量る方向に重きが置かれる現代の評価法は、さらに子供たちにギスギスした競争心を植え付け、思いやりから遠ざけてしまうのです。
 大切なのは人と比べることで競走心を煽ることではないのです。むしろまったく逆なのです。人のことなど気にしないで自分の人生を自分で生きられるように子供を育むことなのです。

 真の思いやりも、私たちが分裂する前の自他一体であった分け隔てない領域に生きる真の自分を生きたとき、始めて人としての互いの本質がふれあって、思いやりとして湧きいずるものなのです。
 学校であれ家庭であれ、この現代社会がこのように出発点を取り違え、子供を正しく成長の道へと導けない理由はどこにあるのでしょうか。


「良いこと」と「正しいこと」の違い


 私たちが子供たちに教えるべき究極の目的は、何が良いことで何が悪いことなのかの外の答えを求める判断力ではなくて、何が正しくて何が正しくないか(間違っているか)の一瞬一瞬に内からやってくる判断力の育成なのです。

 そして子供たちには、良いことをして生きるのではなく、正しいことをして生きる道を教えることが大切なのです。

 しかし、今の大人たちのほとんどが正しいことと良いこと(正邪善悪)との違いを正しく理解しておらず、結果として大人たち自身が自分の外に存在している常識一辺倒に流されています。
 実はこのことが現代人を本当の自由な判断から遠ざけ、真理の受け容れを拒否してしまう第一の理由と言えるのです。

 正しいことが、そして( 正しく生きるための示唆(しさ)でもある )真理が、自分の内からやってくるときには、あくまでも自分固有の役割を示唆する想いとして湧いてくることが多く、決して「人と同じことをしなさい」という想いとして湧いてくることはないのです。つまり、結果として「他人がしていないこと」を示唆してくることが多いのです。

 ですから自分の中から沸き出る真理を真理として受け入れることは、常識(世の固定観念)の枠を超えたところからの発想となり、なかなか正しいことを正しいこととして受け容れ、実行することはとても勇気のいることとなっているのです(このことは次章で詳しくふれます)。
 私たちは生まれてからズッと「良い悪い」「正しい正しくない(間違っている)」という言葉を何気なく使ってきましたが、「良い」と「正しい」を使い分けてきていませんでした。 「良い悪い」と「正しい正しくない」とはどう違うのでしょうか。

 結論から言えば、「良い悪い」とは人間の意思の入っているものです。良いこととは良識とも言えます。人の良識で正しいことと認識されていることです。私たちが良いことと言うとき、そこに主観的な気持ち、つまり好き嫌いのエネルギーを感じることができるでしょう。
 後述しますが、世の常識もこの「良いこと」の部類に属します。
 それに対して「正しい正しくない」とは人間の意思の入っていないものです。

   「正しいこと」とは「生命を進化・成長へと導く運動」言います。

 そして人にとっての「罪」とは、これとは逆のこと ― すなわち「生命の進化・成長を意図的に止めたり、後退させたりする運動」つまり、意図的な正しくない行動を言います。

 正しいか正しくないかは、人が決めるものではないのです。というより、決まっているものではなくて、結果として生命を成長させるか否かのことです。一定の固定的な行為を指して正しいこととか間違っていることとか決め付けることはできないのです。
 正しい正しくないの結論はずっと後にならないと分からず(生まれ変わりを経ての計画もある)、人間には先ず正しいことは判らないのです。

 正しいことは「現象・行為」それ自体の中にはないからです。
 ですから行為・現象に対して人間が定めたことはあくまで善悪であり、正しいこととは言い切れないのです。人間が定めたことは、あくまで人が自分自身で判断できないこと、人それぞれの価値観が異なることを前提に、正しいこととして固定・仮定したこと、それが善悪です。

 例えれば、登校拒否はいけないことで子供は絶対に学校に行くべきだとか、嘘は絶対についてはいけないとか、車のほとんど通らない道であろうと決して赤信号を歩いて渡ってはいけないとか、憲法は厳守すべきとか、会社の就業規則も絶対に守らなければならないとか、そういう人間の決めた善悪の概念や法を守ることと「正しいこと」とはイコールではないのです。
 正邪はあくまで進化・成長に向けて前に進むことか否かにあるのです。

 そこでまた進化・成長の方向性が問題となるのですが、それは様々な方向性があるので簡単に述べることはできないものの、「進化と成長」についてひとつだけ言わせていただけば、進化・成長とは宇宙のエネルギーの大元である「愛の深さ」抜きでは語ることができないのであり、愛の深さには自分と他人とを区別しないという、「自他一体感」体得の進捗が不可欠な要素となります。

 少なくとも成長とは、常識では良いこととされている競走意識のもち方 ―― 「人より上でありたい」「なんでも一番でいたい」というような、「自分と人とを別ける方向性」にはないことだけは間違いありません。
 「良いと正しい」について先の教育問題からひとつ例を挙げてみます。


学校に行かない子供たち


 年々、学校に行かずに自宅で学ぶ子供たち(ホームスクーラー)が増えています。
 平成15年に文部科学省が調査を実施した結果では、中学生の全生徒の2.75パーセントが学校に行かない生徒という統計が出ていました。
 親は子供が不登校になると大問題が起きたと思い、必死になって登校させようとするのが普通です。子供が学校に行かないことは常識から大きく逸脱していると考えているからです。不登校児の親の目の前は真っ暗になるのかも知れません。

 しかし、学校に行かなければいけないというのは人間が決めたことです。人の意思が決めたことです。ですから親は落ち込む前に、不登校は悪いことではあっても、けっして間違ったこととイコールにはならないことなのだと冷静に受け止める必要もあります。
 確かに不登校の理由もいろいろとあるでしょうし、子供も一人ひとり違う人格なので単なる怠け者なのかも知れず、軽率な判断はできないものの、相手が子供といえども子供が納得できないものを親の権限で強制することはできません。
 子供によっては学校に行かないで自宅で工夫して学んだ方が、独立心ができて自立し、成長する(=正しい)場合もあるのです。

 正しいか間違っているかは、この問題が、これからの成長につながることであったか否かであり、その時点ではまず人間には判らないのです。そしてそれは、子供の進化の問題だけではなく、親の進化の問題として平行して出ているこては間違いのないことなのです。
 親子であれ、教師と生徒であれ、一方が一方的に教える立場であり、もう一方は一方的に教えを受ける立場であるというような上下関係は、それこそ人間が演じている進化のための役割を無視して勝手に定めたことなのです。

 義務教育中とはいえ、そもそもみんなが同じような教育を受けなければならないということ自体に絶対性があるかは大いに疑問なのです。
 アメリカでは不登校の生徒は120万人を超えると言われます。先の調査では日本の小中学生の合計で10万2千人ですから11倍強、人口比でも5倍以上いて、日本とは比較にならないくらい多いのですが、そのアメリカのクロンララ校では、日本にいながら学べる通信手段を日本向けにも開放しているとのことです。日本独自のサポート施設もありますし、交流会などのネットワークも複数あります。また、大学も大検を経なくても、海外の高校の卒業資格があれば受験を認めるところもあるようです。日本でも不登校児を支援する集いもできてきました。

 不登校の子供たちでも、自宅でしっかり学んでいる子は、学校に通う子供たちと比べて自立心が旺盛な子供たちの多いことは周知されてきたようです。

 以前見たNHKの教育テレビの番組では、アメリカの不登校児が自宅で学ぶ様子が放送されていました。この番組で、アメリカの児童心理学者、シリー・シャイヤー博士の研究結果としてホームスクーラーの方が学校に通う子供たちより協調性や社会性があることが報告されていました。アメリカではホームスクーラーはしっかりとした地位を得ているようです。

 アメリカでは1980年代の半ばから急速にホームスクーラーが増え始め、連邦議会で一部の議員はこの流れにストップをかけようといろ いろの法案を提出したようですが、結局、ホームスクーラーに有利に採決されているようです。ある下院議員は「ホームスクーラーは理に適っている」と言い、ある下院議員は「すべての子供たちに学校が適っているわけではない」と言い、ホームスクーリングを肯定します。

 これはアメリカでの話ですが、日本にもこのような意識が芽生えてほしいと思いますし、インターネットで「不登校」や「登校拒否」と検索文字を入れてみれば多くの活動が見えてきて、そういった機運が高まっていることがよく分かります。

 もちろん、私は学校には行かないほうが良いと言っているのではありません。ただ、みんなが同じことをして成長することを求めるエネルギーは、古い地球のものであって新しい地球にはふさわしくない、ということも間違いないと思うのです。ですから新しい地球のエネルギーに変化している今、不登校児が増えるのは、私にしてみれば予想されることなのです。

 学校の集団生活を嫌い、先生に命令されることに不快感を感じたのならば、我慢しないで自分を表現するという子供たちは、古いエネルギーにはそぐわない、アセンション(次元の上昇)後の新しい地球のエネルギーを先取りして生まれてきた子供たちである可能性もあるでしょう。
 古い常識に呪縛された大人たちが、こういった子供たちから学ぶことは多いのです。

 学校信仰の根強い日本では、どうしても不登校児を異端視することが多くなります。その思想が家庭や学校にもたらす混乱は、新しい地球のエネルギーを表現しようとする子供たちと、古い地球のエネルギーに執われている大人たちとの葛藤による共同創造とも言えるのです。

 学校だけではなく、企業でもセミナーと称して、管理職はこうあるべきとか、画一的なセミナーが数多く行われていますが、このような強制的セミナーのほとんどは自分を最大限に生かして生きようとしている人にとってはウンザリするものです。自立心ある人にとっては余計なお世話と映ることでしょう。

 私たちが新しい地球に移行するには、こういった常識の「こだわり」の皮を一つひとつ剥いでいかねばなりません。常識(良いこと)は正しいこととは限りません。  私たち人間が考えて決めてきたことのほとんどは既成概念です。

 思考を止め、既成概念というこだわりから離れたとき、真理は自分の中からやってくるのです。


  参考:

週間文春、平成11年12月23日号「自宅で学ぶ子供たち」
NHK教育テレビ、平成12年5月25日放送(ETV2000「もう学校には行かない」)
文部科学省のホームページ(平成17年5月)