[ 第1章 ]エネルギーの法則 |
むかし全米のベストセラーナンバーワン小説になった『聖なる予言』という本をご存知の方も多いかと思います。私がこの書を読んでいたとき、私の中に非常に明快で具体的な情報としてやってきたビジョンがありました。 それは「縦の歯車のベルトと横の歯車のベルトとの連携」というビジョンです。
縦と横に列をなした歯車が噛み合いながら、縦横それぞれのエネルギーがそれぞれの役割をもって流れているという情景でした。
これによると、生命は縦のベルトを通じて天よりエネルギーをいただくのですが、この縦の光は天より降りる神の無条件の愛であり、横に回転する隣人のベルトと歯車を噛み合わせ、横のベルトを押し出すように回転させていました。この縦のラインが私たちの生命活動の原動力となり、私たちの生活そのものの活力となっている横のエネルギーをサポートしている、という感覚を受けました。
そして横の回転は、縦の回転から与えられる神の光に依存するだけではなくて、いつの日か人は成長によって自らの意思で横のベルト(隣人愛)の回転数を上げ、そのエネルギーを更に横の同胞へと分け与えていきます。
すると横の歯車と噛み合う縦のエネルギーは更なるエネルギーを地上に送り込むために更なる高回転を実現します。横の同胞に対して「もっと上げたいもっと与えたい」という想いと奉仕によって、それと連結する縦のベルトの回転数も上がり、さらに多くの愛のエネルギーが巻き込まれるように天から流れ込むのです。そして天のサポートも大きく脹らむのです。 神の愛をより多く受け取るには、隣人愛を放出する横自らのベルトラインの歯車の回転によって、連結する縦軸の歯車から神の愛の光を引っ張り込まなければならないようなのです。
なおさらに、横のベルトの回転を促進するほどに、運動で筋力アップするようにその回転力も必要に応じて育まれて(愛の器も大きくなり)、もっともっと大きな神の愛を流入させることができるようになる、というメッセージでした。
神様は初めから人に差を付けて愛を分け与える気などなく、すべては人の意のままというわけです。
しかし、現実はどうでしょうか?
現実社会の歯車はこれとは異なる回転を作りだしています。概ね人類は神の存在とその創造力を信じずに、縦軸と横軸の歯車の連結を無視して生きています。縦の光なくして人は生きていけないことを認めようとしません。
現代人は横のベルトからくるエネルギーだけを信じ、頼って生きています。「眼に見えない神の光なんか信じられない」と言うのです。
神の縦の光を認めないでいると、エネルギーは横からしかやってこないと思い込み、エネルギーを隣人に与えるどころか隣人から引っ張ろうとします。それがエネルギーを増やす唯一の道だと思うからです。「幸福は人から奪うことができるもの」と思ってしまい、競争が生じます。加えてこの世は競争社会で、競争に勝たねば幸福もやってこないと思っている人々は、全員一緒に幸福になることなどあり得ないと思っているので、それがさらに競争意識に拍車をかけてしまいます。
競争意識は他者と自分とを比較するという意識を生みます。しかし幸福というものは、他者との比較で成り立っているものではないのです。
「自分が幸福かどうか」ということにおいて、どうして他者との比較が必要なのでしょうか?
私たちはもう、人からエネルギーを奪うという癖を止めなければなりません。
間もなく訪れる新しい地球に住む人々は、幸福を呼ぶエネルギーの源は隣人にはないことを知っています。たとえ隣人からエネルギーが来ても、その元は天にある永遠の源にあることを知っています。自分が隣人に無限に愛と癒しを与えればこそ、自分も神から巡る愛と癒しによって限りなく愛されるという十字架の法則を知り、その教えを実践する人々です(十字架の縦軸は神の愛、横軸は隣人愛を象徴している)。
お金にしろ、物質にしろ、三次元で認識される富はエネルギーの入れ物であり、エネルギーそのものではありません。実在するエネルギー自体の本籍は三次元にはないのです。有限である地上の物質ではなくエネルギーの本質は無限の世界からくるのです。
しかし、人々はエネルギーと物質を同一視し、富のエネルギーは「地上にしか存在していない限りあるもの」と観念づけています。 そして限りある富を獲得しようと競争原理を信奉する現代では、人からエネルギーを奪うということが当然のように黙認されているのです。しかし、そんな世界には自ずと限界があるのです。
エネルギーは無限ではなく限界がある、との恐れが現実にエネルギーの限界を作り出すからです。
しかし富としてのエネルギーのあり方、増減、それ自体も人の心の反映なのです。
自分のエネルギーはなくならないようにと、人に流れないようにと塞き止めておきながら、他人からはエネルギーを奪おうとするのですから、縦軸からやってくる新しいエネルギーが生まれることのない「有限の現実」を創りだすのです。そして、人はいつも互いに自由を奪い合い、不自由を生み出しているのです。
エネルギーには限界があると信ずる世界では、エネルギーを出し惜しみ、新しいエネルギー源を次々と自分の周りに探し求めなければならず、エネルギーの獲得に大変な苦しみと努力を伴うことになるのです。
繰り返しますが、生命を生かすエネルギー源は天にあることを認識して、天からいただいたエネルギーを開放しようとしない限りは、天のエネルギーのさらなる流入を拒絶していることになります。「他者を愛さずして神から愛される」ということは起こり得ないのです。
まして人からエネルギーを奪おうとしてはなおさらです。
しかし、人類の歴史はこれまでその繰り返しでした。それでも神の公平なる慈悲として、生命を維持する分のエネルギーだけはいただいて来ましたが、進化はなかなか進みませんでした。
今後、人々は心を洗い清めることで波動を高め、それによってヴェールの向こうに住む本当の自分と一体となり、自らの「意志」によって意識的に光を多く取り組み進化を作り出す時代へと入るでしょう。
むかし「電気は溜められないから大切に」という電力会社のテレビコマーシャルが流れていたのを見たことがあります。電力というのはエネルギーであるということは万人が認めることですが、エネルギーにはいくつかの同じ法則が働いているようで、そのひとつがこの「溜められない」ということのようなのです。
また、「常に動いている」という法則も働いています。そして「常に変化する」という法則も働いています。エネルギーの源は物質にはないので目で見ることはできないものの、エネルギーには仕事を継続しながらより高度なものへと変化する過程で、自らの乗り物を変えていく性質があると言えるのです。
米国人のジャック・パーセルがチャネルするスピリットであるラザリスは、エネルギーの変化形態を『ラザリス・聖なる旅』(ワン・ネットワーク発行)の中で「変形」「変容」「超越」として以下のように概念付けます。
☆「変形」 |
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☆「変容」 |
☆「超越」 |
今、この本を読むために灯っている頭上や手もとの電灯を見てください。光は止まっているように見えても、実際には次々と光が送り込まれ放射されています。エネルギーは常に動いているからです。光という形にまで変容したこの電灯のエネルギーは、電球の中の光に到達するまでには様々な形への変容を経過してきました。
少し前までは火力電力の火の中にあったり、水力電力の水の中にあったりしました。その前は雲にあったかも知れません。このようにエネルギーが仕事をするとき、常に流れていてとどまることはしないのです。頭上や手もとの電球へも休むことなくエネルギーが補給され、熱へ、光へと変化しています。
エネルギーはこのような性質をもつのですが、前述した譬えでラザリスは、まるでお金がエネルギーであるのを当然のこととして、その紙幣からコインへの「変形」と、コインから飲料への「変容」を示しました。しかしお金がエネルギーであるということをどれほどの人が理解していると言えるのでしょうか。
お金がエネルギーであるということにふれる前に、私たちの日常生活の中でエネルギーの流れを塞き止めてしまう譬えをいくつかあげ、身近なエネルギーの流れを考えてみます。
〈貧乏性〉
私はタバコを止めてから15年になります。それまでは毎日60本以上を吸うヘビースモーカーでした。お酒が入ると2時間で一箱がなくなりました。これだけ吸うと常にカバンや机の中にストックをもっていないと不安でした。ですから、ヘビースモーカーの気持ちは今でも良く分かります。
このように私は貧乏性なので、雑誌に定期的に原稿を書く場合でも、以前は常に早めに原稿を書いてストック(エネルギー)としてもっていたいと思い、実際そうしていたことが多いのです。しかし、エネルギーのストックは新しいエネルギー(アイディア)の流れを塞き止めることが経験として分かってきました。 ですから私は今、古いエネルギーであるストックをどんどん惜しまずに書いて開放し、執筆の新しいアイディアをいただく準備をすることに努めているのです。
エネルギーを必要以上に溜める行動は未来への不安からきているので、それは今を生きていないことの証となるのです。不安は、今にしか存在していない神を疑う心の現れでもあるのです。それでは神と共に生きる中で神から執筆のアイディアのエネルギーをいただくということはできないのです。
〈秘伝の味〉
飽食時代の今、美味いレストランの味を紹介するテレビ番組が多くあります。このような番組では「秘伝の味」という言葉を耳にすることがよくあります。実際に番組を見ると、自分が苦労して探し当てた味の作り方は、簡単には他人に教えないので「秘伝の味」となるようです。
「自分の味は自分で見つけて欲しい」「安易に人に頼らずに自分の道は自分で切り開いて欲しい」という意味であえて人に教えないのなら良いのですが、実際の動機は競争意識から人に教えないという人がほとんどのようです。
しかし、我欲から智恵(エネルギー)を秘密にするのではなくて、皆が美味しいものを作れるようにと、他へ智恵を分け与えることで智恵は流れ、巡り、人に教えた智恵以上に素晴らしいアイディアが新たに天から降ってくる
― 自分の中から湧いて来るものなのです。
〈売上の貯金〉
財界人である鉄鋼王のカーネギーは「他人の利益を図らなければ自らも栄えない」との哲学をもっていました。これは正にここで言うエネルギーの法則であります。
売上追求や利益追求を至上とする企業やその営業職場全般でよく行われるのが、売上(=伝票=お金)の貯金です。目標を上回った売上を次月(次年度)に繰り越して、先の予算を楽にしようとすることです。
個人、部署、時には会社ぐるみで売上を停滞させます。エネルギーの法則からは、我欲の貯金はエネルギーの流れを塞き止めます。ですから新鮮なエネルギー(売上)は、流れたくとも器の中に入れてもらえずに吹きこぼれます。
頭の中を空っぽにして今を生きないと真理は入ってこないように、未来に不安をもって売上を溜め込んでいたのでは新たな売上を創造する道を塞き止め、エネルギーの循環を拒否するということになるのです。
売上は伝票を上げることでエネルギーが変換され仕事(役割)を果たします。それが新しいエネルギーの道をつくり、器をさらに大きくし、より多くの売上流入を可能とします。しかし、みんな貯金こそが自分を楽にすると思い込み、伝票を出し惜しみます。
なぜでしょうか? 皆、エネルギーには限界があると思っているからです。本来、エネルギーは無限なので、目標を達成できるかなどと心配せずに「情報を求める人に広く、正しく、分かりやすく提供する」という、営業職場本来の役割を純粋に遂行し、仕事をもっと単純に、もっと解りやすく、もっと楽しいものにしてほしいものです。
そうすれば結果は必ずついてくることでしょう。それなのに長年にわたって繰り返してきた「数字の操作」の慣習から離れられず、人々は自ら苦しみの中に浸かります。
目標設定が自分に枠をはめることになっては自由な活動ができません。
米国の「スターバックスコーヒー」と提携以来、8年間で550店舗(2005.3.31現在)をオープンするなど、いつも先取りの気質で事業展開をしてきたサザビーの代表取締役・鈴木陸三氏は、「今後5年間、消費者の嗜好は一段と多様化、個性化するとにらみ、社内カンパニー制の導入など布石を打つ。ただ、最終的な目標はあえて揚げない。『先を決めずにいつも新しい変化を楽しみたいから』」(日本経済新聞・平成12年10月23日夕刊より)と語りました。
売上に固執しすぎると数字をついつい操作してしまいます。売上を正しく計上できないのは、自分で作った売上目標という既成枠の達成を楽にするために、自分で自分を騙さざるを得なくしているのです。 売上を貯めたところで、現実の売上数字が上昇するわけではないのです。
お金自体はエネルギーではなくて、エネルギーの乗り物なのです。エネルギーの法則を理解して、売上を惜しみなく計上すれば、エネルギーの乗り物であるお金を引き寄せることとなるでしょう。
この本質を理解しないで、人は貨幣(エネルギー)には限界があるという観念をもった上で富を増やそうとしているのです。「富=お金=物質」と考えているので、富は無限でなく有限であるという観念になるのです。
しかしこの観念こそが、貨幣というエネルギーの乗り物に意識をコントロールされ、貨幣制度に富の限界を作り出させているのです。
精神世界の本などをよく読まれる方は、一度ならずとも「お金はエネルギーである」と書かれた文章に出合っていることでしょう。しかし、なぜお金がエネルギーなのかの説明はあまりされていないようです。
漢字というものは表意文字ともいわれているように、一つひとつが意味をもっています。
第一章でも述べましたが、私を表す「自分」という漢字は、自ら分かれたものと書きます。私たちは唯一の私(創造神)から分かれた存在です。ですから、私たちは元々ひとつの私であったとも言えるのです。
「白米」という字を横に並べますと粕(かす)と読みます。
陰陽のバランスということからは、太陽の陽射しを浴び、豊かに陽性エネルギーを含んでいる玄を削り捨ててしまった白米とは粕なのでしょうか。こういう発見は漢字からだけではありません。
dog(犬)のスペルを逆に並べるとGod(神)になります。
このことは私の知り合いのアメリカ人女性から聞いたことで、欧米人の良く知るところなのだそうです。 その意味について私なりのイメージを求めて無意識の中をさまよっていたら、次のイメージがやってきました……。
(○は神と人間との関係、●は人間と犬との関係)
○ 神様は、人が「神も仏もあるものか」と神に怒っても、黙って人を見守ってくれています。
● 犬もどんなに飼い主が理不尽に怒ったとしても、すぐにシッポを振ってなついて来ます。
○ 神様は人が寂しくしていても常に心に光とエネルギーを与えてくれています。
● 犬もご主人が寂しくしているときには天性の無邪気さで飼い主の心に光を運んでくれます。
○ 神様は人がどんなに神の道を外れようとも、人が成長して神の道に回帰するのを我慢強く見守ってくれています。
● 忠犬ハチ公はいつまでも主人の帰りを待っていました。
文字とは面白いものです。果たして私たちは意識的にこういう想いをもって文字を作り出してきたのでしょうか?
私たちは何事も自分ひとりで考えて行動していると思っていますが、実際には私たちには様々の意識の関与があります。第四章で詳しく後述しますが、私たちの現在意識は本当の私から意識の働きかけを受けると同時に、本当の私とは呼べないような意識からも様々の働きかけを受けています。この私たちの現在意識が無意識にコンタクトしてしまう意識の領域も、私たちの心のあり方によって異なってくるのです。その中には気づかぬとも、真の神の見えざる意思もインスピレーションとして注がれ、私たちの意思として変容します。
文字も、人が昔から無意識のうちにいろいろと神の意を示唆的に内包させて作ってきたのだと感じます。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、どうしてお金がエネルギーなのでしょうか?
例えばお金の単位を日本では「円」で表しますが、これは丸い円を意味します。
「ちょっと待て、私はそんなつもりで日本の貨幣単位を円と名づけたのではないぞ」と、円の名づけ親からは言われてしまうかも知れませんが、見えざる意思の働きかけがあったのだと、私は密かに確信しています。
エネルギーとは常に動いているものでした。そしてエネルギーとは円を描くように循環されるものでした。貯めるものではなくて使う(回す)ものです。だからお金のことを“円”と名づけたのです。否、名づけさせられたのです。
すると自ずとお金の正しい使い方も観えてくるというものです。エネルギーの法則は、エネルギーであるお金にも当てはまるからです。
「金は天下の回りもの」とも言います。
天を信じて自分のしたいことに正しくお金を使っていれば、お金は常に潤沢に循環するので困ることはないと言えるでしょう。
エネルギーはすべて循環します。エネルギーとは貯められるのが役割ではなくて、循環され、変容されながらとどまることなく縷々(るる)と流れ、使われ続けるものです。そしてそれを使う人の意識を超越へと導き、お金はその役割を果していきます。
お金は、それを使うことで私たちに「エネルギーの使い方」を教えてくれているのです。正しい循環と変形、変容、超越の仕方を教えてくれているのです。
「お金は諸悪の根元」と言った人物は、お金の造られた神意を知りませんでした。
本来、お金には何の責任もありません。お金は三次元にはない神のエネルギーが「変換」「変容」され、私たちの意識がお金を“超越”するための“エネルギーの乗り物”として発明されました。
私たちは、お金から「お金という『物』に頼らなくとも、もっと素晴らしい『もの』を使って秩序が保てる社会」に入る前の学習として、お金を貯め込まないで循環させるエネルギーの正しい使い方を学ばせていただいているのです。そして最後に私たちがお金を超越したとき、お金のない社会が実現するのです。
いずれ(近い将来)地球社会はその秩序をお金のエネルギーで運営する社会から愛のエネルギーで運営する調和の社会へと移行するでしょう。
今の経済体制の中でも、お金に執着して使うことをためらったり、貯め込むことばかり考えたりしていたのでは、正しい使い方とは言えず、新鮮で邪念のないお金の器も膨らまず、多くは入ってこないと言えるのです。たとえ入ってきても邪念が取り憑いているのでいらぬ苦労を伴ってしまうのです。
とはいえ、これまでは確かに、眉間にしわを寄せ、人と競争する中で精力的にお金を使って富を築いていくという生き方をしている人が多く、地球の波動も荒かったので、現実的にもこのような生き方をして富を獲得している人の方が圧倒的に多い結果となっていました。
しかし、21世紀となり新しい地球へ向かう今、世の中は大きく変化しています。その一つひとつを繊細に注意深く観てみると、その変化は新しい地球と同調する生き方への変貌を意味していることがよく分かります。財の創造の仕方も例外ではありません。エネルギーの法則を理解して、お金に対する意識を変えていかないと、経済活動はこれまでのようにはうまく行かなくなるでしょう。
私が10年以上前に「これからは都市銀行ですら破綻する時代に入る」と言ったとき、誰もが私を笑いましたが、それがいま既に現実に起きています。
今、「危機管理」という言葉をよく耳にしますが、これもこれまでは必要であった常識としての既成概念に過ぎません。例えば個人的な危機管理である「生命保険」は、今後の「いま」を生きる生き方からの発想ではなくなっていきます。もう危機管理という概念は古い地球の概念になりつつあります。実際に生命保険会社にも銀行にも昔の栄華はなく、今は大変な時代に入っています。
危機管理は、神を信頼して自分の創造力を信頼して生きる未来の地球では消滅している概念です。
ここ数年、中堅の生命保険会社も業務を続けて停止しています。自分の家族を殺害してまでも保険金を手に入れようとするような、いままで映画のストーリーにすらなかったような保険金殺人事件が現実に連続して起き始めました。
銀行が集約されてきたのは未来の秩序を示唆しています。同じ駅の近くに5つも6つもの金融機関が並んでいることは、これまでの競争原理的な秩序の下では正しくとも、今後、調和社会を実現する地球では無駄ということになります。そういうエネルギーの流れが現実に現れているということです。
競争原理を正しいと思う人はこの考えに納得できないでしょう。しかし、人間の体を見ても、腕や耳が左右にあるのは必要だからです。手の指が十本あっても、全部役割が違うのです。指同士が競争することはありません。本来、意識の進化した人々が営む一つの生命体としての社会の秩序も、こうあることが自然なのです。
こうあることが役割を無駄なく表現する新しい地球の省エネ共同創造の秩序なのです。
お金社会も、今までのような金儲け主義で成功する時代ではなくなっていくでしょう。
お金に関したこと以外でもエネルギーの変化はいろいろとあります。
インターネットの出現で情報に関する価値観が崩れ始め、私たちは無償でいろいろの情報を享受できる時代へと入ってきています。
(一方では犯罪などの増加で、個人情報保護法が2005年に4月に施行され、情報ネットワークに制限を設けるという、ユートピア社会の秩序とは逆行する動きもある)
政治の世界では、以前、自民党と社会党が手を組んだこともありました。また現在は、自民党は宗教団体と深い関係を持つ公明党と手を組んでいます。このようなことは以前は考えもつかなかったことです。敵と味方だけの二極分離の政局が動き始めているということです。
平成13年5月9日、小泉総理は衆院代表質問で鳩山民主党代表の「改革に抵抗する勢力とは誰のことか」との問いに「どういう勢力かはやってみなければ分からない。私の内閣の方針に反対する勢力はすべて抵抗勢力だ」と答えました。
鳩山氏の質問にある反対勢力とは、既成の組織(橋本派)を念頭に置いてのことですが、小泉総理は派閥どころか政党という枠組みすらも意識しないというスタンスを、この発言から汲み取れます。
「やってみなけりゃ分からない」― まさに邪魔者は敵味方の組織とは別に、ありとあらゆるところから出没するのです。敵のグループとか味方のグループとか、そういった、人をグループで分けるという観念自体が新しい地球の調和のエネルギーにはそぐわなくなってきていると感じます。
政界のみならず、最近では県警察の悪事なども、いぶりだされる時代になってきました。
昔と比べて悪事が増えたということではないと思います。波動が高まる地球では、こういった社会現象があぐらをかいて、のさばり続けるということができなくなってきているのです。
実業界での雪印乳業の2年にわたる怠慢、輸入牛肉の偽装工作や、三菱自動車工業の会社ぐるみの隠ぺい工作など、こういった動機の不純なものがあぶり出されています。
2005年のJR西日本日福知山線での脱線事故も、営利にこだわざるを得ない体質への警告とも取れま す。これらから言えることは、現実的に地球のエネルギーの流れが変わってきているということです。
身近な社会現象を見ていると、今、犯罪の狂暴性や陰鬱性が高まりその数も増えてきて、さらに事故や自然現象の猛威が続き、それだけを見ていると、この世の流れはどこまで行ってしまうのだろうなどと考えてしまいます。
2001年にアメリカで起きた連続多発テロは、全世界を震撼させました。20世紀末のハルマゲドンの預言ははずれ、世界は預言者が預言したようには進んでいなかったのに……。
意識を研ぎ澄ませて、地球の声を聞いてみましょう。これらの変化は何を意味するのでしょうか。地球の波動は間違いなく愛と調和の方向に上昇しているのに、その波長に乗っていけない人類の意識が蔓延し、そのギャップがいよいよ現れ始めたということだと思います。そのギャップの反映は今後、人為的な事件に留まらずに地球規模で起こる可能性があります。地球は生きているからです。
私たちはこの変化を最小限にとどめると同時に、私たちの心はその“時”に備えなければなりません。
海の水は蒸発して雲になり、雲は雲であり続けず、雨になります。雨は土に吸収されて樹木に組み込まれ、樹木は酸素を作り出します。エネルギーはそのままの形に留まることはあり得ません。常に変化しています。なのに、お金に限らず愛のエネルギーも使われずに貯められ続けると腐ってしまいます。入ってきたエネルギーは必ず行き場所(仕事場)を求めています。
神の創造物であるエネルギーには「循環して役に立ちたい」という神聖な自由意思が宿っているのです。 お金は使われることで仕事を果たします。愛も然りです。愛も貯めていても仕事をすることはできません。愛もエネルギーだからです。
ですからお金と同じ法則の下にあります。愛のエネルギーも行動することで変容し、他へと流れ、愛の器もそれに見合った器へと増幅・増長されていきます。天から愛をいただいたら、それを自分の器にとどめずに他へと行き渡らすことが大切なのです。
この地球の物理学においても、エネルギーの交代・代謝・転換・恒存などの様々の法則から、エネルギー量は質が変化しても変わらないことが確立されています。これは、エネルギーは循環するということの証でもあります。そして循環するとは言え、実際のエネルギーは次元を超えた広大な宇宙に存在し、今も創造され続けられているのであり、地上の物質と比べればその量は無限といえるのです。「無くなる」という心配はまったく無用なのです。
エネルギーに循環の法則がある以上、物理的に量ることのできない愛のエネルギーも、使えば使っただけの愛が天から補充されているのです。さらに愛の器も大きく膨れ上がるのです。
このエネルギーの法則を理解して、愛を求めず正しく無限に使えるか否かで、現実の創られ方が全く違ってくることでしょう。「目に見える世界のみを信じて、エネルギーを有限とした現実」に生きるか、それとも「目に見える世界の存在はすべて無限のエネルギーの乗り物であり、無限の宇宙エネルギーを呼び込むことによって、この世の富(エネルギーの乗り物)も無限となって呼び込まれる現実」を信じて生きるかは、それを受け取る側の意識のもち方と実践次第です。
私たちの意識が現実を創っているのです。
エネルギーの循環を知らず有限と思っていると、エネルギーに執着してその消費を拒んでしまいます。それは同時に、エネルギーの器の拡大も拒んでいることになるのです。
また、エネルギーの変容を受け容れないと、このアセンション(次元の上昇)の大事な時期に前の形にこだわって、新しいエネルギーの訪れとその意味にも気づきません。
今は新しいエネルギーの訪れのときです。21世紀はすべてのエネルギーが新しい地球と一緒にアセンション(次元の上昇)を遂げます。エネルギーそれ自体が生まれ変わり、超越して次元の上昇も、果たします。
しかし新しい地球は私たちの意識を引き上げてくれるわけではありません。それは私たちの一人ひとりが自分の意思で決めなければならないことです。ニュー・エイジの多くで言われているようには、現実はけっして甘くは進みません。平和を勝ち取るのは自分自身の心のあり方と行動にかかっているのです。 世界は私たちの心の反映だからです。
愛がエネルギーであるということは物理的には証明することができません。それどころか愛の存在それ自体も物理上では証明できないです。形而上的なものはみなそうです。心も物理的には証明することができません。
それなのに、「心は存在しない」という人は一人もいないのです。同じように「愛など存在しない」という人も一人もいないのです。
人は神の愛は信じなくとも愛の存在は知っています。
それは、自分が神に愛されていることに気づかない人でも、自分の中に愛を感じたことのない人など誰一人として存在していないからです。
しかし今こそ、その愛は神からきているのだと知り、神の愛を感じることが大切です。自分の愛は神の愛そのものであると。自分と神は一体であると。
事実、愛は遺伝するものではないので、自分の愛は神から流れている神の愛そのものなのです。
人間の体にたとえれば愛は血液のようなものです。五体から20本の指に至るまで、私たちは独立しているようであっても、血液である愛を共有しています。足の指にあった血液は、数分後には手の指へと異動してエネルギーを与えてくれます。それを受け入れる器がそれぞれの器量によって異なっていますが、愛である血液は自在変化です。この愛こそが私たちの生命線であり、私たちのたった一つの実在である生命の根源、即ち愛なのです。
すなわち「私は愛」であり、「私は神」なのです。
自分に自信のない人でも、神の愛をもっと信じることができれば、自分をもっと信じられるでしょう。
現代は、負けず嫌いで何でも一番にならないと気がすまない人物とか、ハングリー精神の旺盛な人物とかを高く評価する時代です。
そんな時代にはなかなか受け容れていただけることではないのですが、競争とは自分と人とを明確に別けることです。エネルギーを隣人から奪うことにもつながります。必ず敗者を作り出し、敗者という犠牲の上に富や豊かさを築くという現実を実際に作っているのです。それは本当の人間の求める幸福とは程遠いものです。
「人と競うことで人は初めて成長し、(通信簿のように)人との比較ができるものが存在して初めて人の成長は確認され、人の評価もできる」と思っている人が意外と多いのですが、現実はそうではないのです。
人がエネルギッシュに生きるためのエネルギー源にはどのようなものがあるのかを、私たちはもっと真剣に考えるべきです。確かに現代人がエネルギッシュに生きるには、人の上に立ちたいという競争心や虚栄心がひとつの源になっていることは否めません。しかし、それがすべてでしょうか。そして、そのエネルギーは私たちの良心ともいえる真の自分にとっても、心地よい調和のエネルギーとして感じられているのでしょうか。
競争心というエネルギーも存在している以上は神が許したものです。ですからこれまで存在理由があったことも否めません。しかし、これはいつかは反対方向へ、すなわち愛のエネルギーへと変換しなければなりません。
競争とは自分と他人を引き裂き、別けようとする性質をもち、愛とは他人を自分のことのようにとらえ行動しようとする性質をもつため、その性質は正反対なのです。
厳しいい方をすれば、競争原理を信じて疑わない人というのは、愛が深くない人です。あるいは愛のエネルギーの使い方を知らない人です。それ故に表面に直ぐに出てくる競争意識のエネルギーに頼るのです。しかしどちらが終局的には強いエネルギーとなるでしょうか。自己犠牲をいとわない愛と、自分が自分が、という競争心とでは・・・。
私たちは取り返しのつかない状態になる前にそれに気づかねばなりません。いつまでも分裂という経験をしているわけにはいかないのです。
それなのにまだまだ競争心というエネルギーは現代人のほとんどに取り憑いて、肯定され、顕在化していて、それを捨てることはできない状態なのです。ですから、それを利用することはとても安易で即効力があり、手っ取り早いことなのです。それ故にどこの企業でも競争を謳い、危機管理を煽り、常に神経をとがらせることを強いてしまうのです。
人と争うことが好きという人にとっては確かに表面上は幸せな生き方に見えるかもしれませんが、蓮の根のようにつながっている人の意識の根底からひとり静寂な思いを取り戻したとき、私たちの心のふるさとも果たして本当の幸せを感じるものでしょうか。それは人々の真の調和には結びつかないのです。
一方、愛のエネルギーは競争心以上に誰にでも備わっているのですが、人の奥深くに実在し、蓮の根のように人目に触れないので、競争心と違って明確に常に顕在化されておらず、愛を元にエネルギッシュに生きるということが現代では至難のわざとなっているのです。
しかし、好むと好まざるとにかかわらず、競争というエネルギーは新しい地球にはもち込むことはできないのです。今はもう既に、競争のような低い波動のエネルギーを使ってエネルギッシュに生きる時代ではないのです。本当の自分が住むふるさとの、もっと高い波動のエネルギーとつながり、それを使ってエネルギッシュに生きる時代に、既に入っているのです。
さらに、愛を使ってエネルギッシュに生きることは、愛の高度な理解も必要なのです。それはつまりこういうことです。
私たちが日常生活で愛と思っているエネルギーも実際には愛とは呼べないものの場合が多くあり、正しく調和に結びつき難い点があるのです。
例えば、「恋愛」と「情け」は“愛”と理解されがちですが、この二つとも純粋な愛とは異なるものです。
「恋愛」は愛というより「本能」に近いものです。なぜならば、恋愛は原則、異性を愛するように限定した心の動きをします。私たちは男にも女にも生まれ変わります。それなのに男に生まれたときに女を愛し、女に生まれたときに男を愛すること、すなわち常に異性に恋をするということは、恋愛とは神が肉体の中にある遺伝子にプログラムしたDNAの作用であることは明白なのです。
つまり永遠の命としての固有の意識ではなくて、その時いただいた肉体の人生に付随したものであるということです。
本来、愛は男女に限定されるものではないのです。なぜならば愛は遺伝しないからです。人間に内包される意識には、遺伝する肉体側の意識と、愛や意思のように遺伝しないで神から流される意識があるということを知る必要があるのです。
男女に限定されることで子孫繁栄が意図された恋愛は愛というより本能に近いものです。
もちろん恋愛には愛も含まれるのですが、それは「恋」に付随して愛のエネルギーが流されていると考えるべきでしょう。そして恋とは愛を学ぶ良い機会でもあるのです。
また「情け」ですが、情けは人のための「思いやり」ではなく、出発点は自分なのです。
なぜならば、愛のエネルギーには「他を成長させる」という運動が不可欠なのですが、情けにはこれが希薄なのです。相手の成長が前提になっていないのです。ともかく相手を楽にしてあげたい、救ってあげたい、相手の希望(欲)を満たして上げたいということで、自分の欲を満たしているに過ぎないのです。それは理性の判断ではないので、結果として相手の成長を支援する行動とは成り難いのです。
これらを取り違えると、野放しになった恋愛と情けは、(恋愛において)愛憎の区別はなくなり、(情けにおいて)甘やかしは蔓延し、進化と調和は実現しないのです。ですから人は知らず知らず、愛の本当の偉大さを知らずに、道を間違えて走ってしまうのです。
「愛と情け」に関連してもうひとつ。
昔、私がハワイのマウイ島に行ったとき、テレビを見ていたら日本のドラマが放映されていて、「女の幸せはどんな男と結婚するかで決まる」というセリフを聞きました。日本でなら聞き流せるこのドラマのセリフも、マウイのエネルギーの中では「チョット待てヨ」と思ったものでした。
「花子さん、僕はきっと君を幸せにするから黙って僕についてきて欲しい」
「お父さん、僕は花子さんをきっと幸せにいたします。どうかお嬢さんを僕に下さい」
こういう結婚前の男(新郎)の言葉は日本では常に肯定されます。
しかし、成長を支援するという愛の観点からは、これは「お節介」です。というより罪ともなりかねないのです。人が他人を幸せにすることは本来できないのです。第五章の「意識の進化論」で詳しくふれますが、幸せは自分で創るものであり、その過程こそが人としての自立への道であり、そこにこそ人の成長があるのです。「私があなたを幸せにして上げる」というのは明らかにお節介のエネルギーです。このエネルギーはエゴの入った情けではあっても、愛の心ではありません。このエネルギーが自立を阻みます。
これは子を育てる親の目にも言えることです。子供を自分の理想とする方向に制御してもっていこうとする親をたまに見かけますが、「私がこの子の人生を幸せに作ってあげる」という、親が抱いている「理想」の中に子供の幸福と成長がある訳ではないのです。子供の人生は子供のものです。親といえども子供の自由意思をコントロールし、強制操作することはできません。
愛の観点からは「僕はA子さんが幸せになるお手伝いをしたい」「この子の成長を支援したい」という思いからの行動となるのです。
“情け”は行き過ぎると「宇宙の法則」に違反します。宇宙の法則とは生命の進化・成長を前提とした法則で、情けは進化・成長を止めたり、人を間違った方向に導くこともあるからです。
「人(生命)を間違った方向に導くこと」「人の成長を止めること」―これを「罪」といいます。
宇宙の法則から観た罪とは、法律に触れることではありません。
「銀河カウンシル作戦本部」は、『ET地球大作戦』(コスモ・テン発行)の中でこう言います。
『覚醒を体験する間、また覚醒ののち諸君はいつでも作戦本部、カウンシルのメンバー、すべての宇宙同盟、高次元のマスター、地球界のあらゆる王国に援助を依頼する権利をもっている。(略)諸君は声望の高い宇宙社会のメンバーとしてこの作戦に参加しているのであるから、ぜひこの権利を行使してもらいたい。これによって諸君が守られるだけでなく、諸君からの援助依頼は、高次元のエネルギーが合法的に入るための手段でもある』
他人を助ける場合でも、「助けて欲しい」という意思表明が明確にされてもいないのに、自分勝手に人を援助するということは慎まなければなりません。
銀河カウンシル作戦本部はさらにこう言います。
『我々は侵略しない。しかしながら、この作戦要員の一人が地球人として生きることによって地球人の地位を獲得し、次元を超えた干渉または援助を要請してきたときには、その要請に応えても宇宙の法則を破ることにはならない』