[はじめに]



 日本蕎麦を食するとき、蕎麦を汁に全部付けずに半分程度付けて食べるのが通の食べ方である、ということはよく言われることです。
 私が東京神田の「藪」という有名蕎麦店で初めてセイロ蕎麦をいただいたとき、その蕎麦汁が思いのほか濃く、自然と蕎麦汁に蕎麦を半分程度付けていただいていました。
 このとき、「ああ、むかしの江戸の蕎麦はこういう濃い汁で食していたんだな」と思いました。
 しかし今の市井(しせい)の蕎麦店のように甘く薄い蕎麦汁でいただくのなら、やはり蕎麦は椀の汁にどっぷりと付けていただきたいものです。

 なにかの仕来たりや決め事には、必ずそのときの前提となる背景があるものです。

 こだわりの逸品などという言葉をよく耳にします。この「こだわり」という言葉からどんなエネルギーを連想されるでしょうか。
 料理人が選ぶ食材にしろ、人の生き方にしろ、人は何らかのこだわりをもって行動することはよくあります。それは「これは絶対にこうだ」という一つの信念と言えるかも知れません。そしてそういう信念をもって生きることはとても大切であると多くの人は考えています。

 しかしこの書は、そういった一般的な常識とは逆に、「こだわりや、執着を伴った信念をもたないであるがままに生きるほうが、人は人生を自由に生きることができる」ことを意図して綴ったものです。
 執着の宿った信念が、さらには既存の常識が、こだわりとなって私たちの自由な判断を制限するとき、人はありのままの自分となって、自分の中の神聖を表現しながら日々の生活を営むことができなくなってしまうからです。

 世間では多くの人が盛んに「既成概念を捨てよう」と説いているにもかかわらず、実際にはそう説いている人のほとんどが、自分がどれだけ多くの既成概念にこだわり、縛られているのかにまったくといっていいほど気づいていないかのように思えます。そして過去の記憶から離れられずに生きているかのように思えます。
 既成概念に対するこだわりを捨てるということは、生半可のことではとてもできることではないからです。

 世間では多くの人が既成概念を一部の考え方や判断基準のように捉えているようですが、読んで字のごとく、人間が作り出してきて既に成りたっている概念そのものを指すのです。その中には私たちが常識と思っていて普段は何の疑問も抱かないことが多く含まれているのです。しかし人が既成概念の本当の意味を正しく捉えていないので、結果的には人類のほとんどが知らず知らずに既成概念に縛られながら日常生活を送っているのです。

 私たちは幼い頃から親や学校の先生から様々の教えを授かってきました。たくさんの本を読んで知識を詰め込み、解答用紙には何の疑問ももたずに記憶した答えを書き込んできました。
 大人になっても先進の言葉に耳を傾けたり、多くの書物を読んだりして知識や教訓を学び、人生を歩んできました。つまり、自分がどう生きたらよいかの答えを自分の外に求める学び方を、幼い頃から大人になるまで当たり前のように続けてきたのです。そして多くの人は、それこそが人が成長する最善の方法であるとさえ思い込んでいます。
 そのために今も、既成の知識に対してもってしまう依存心からなかなか離れられずに、自分の外ばかりに目が行ってしまっています。そしていつの間にか多くの人は、「本当に頼れるものは何か」ということを思い出すことなく、人生を終えてしまうことが多いのです。

 しかし知識は、それがどんなに素晴らしい真理と思えても、人が言った真理も、本に書いてあった真理も、すべての真理は知識となったとき既に既成のものなのです。知識は、それがどんなに見聞を広げるものであっても、それは同時に、物事を過去という時間の世界から計り知ろうとしている、という事実を超えることはできないのです。
 このような既成の知識で覆われた概念から解放された純粋で無垢な心を取り戻したとき、人は本当に頼りになるものの声を聞きながら、あるがままの自分を生きることができるのです。
 そのとき私たちはハッキリと知ることができるでしょう。真理は既成のものの中には存在していないことを。

 既成概念を捨ててあるがままの自分を生きるということは、すべての既存の知識から解き放れ、純白な心で瞬間々々に一人ひとりの中に生まれいずる真理を受け入れながら生きることで、これを「今を生きる」と言います。

 世間では頑固な信念を美徳とし、横並び的な常識を良識とする風潮がありますが、実は多くの場合、こういった見識が既成概念そのものとなって、「既成概念に縛られている自分」に気づかせなくさせているのです。信念も常識も、普通は否定されることなどあり得ないからです。

 しかしもしも、人の言う常識がそれほどまでに完璧であり、こだわるべきものであるのならば、この世の秩序を取り仕切る常識に成り立つ地球社会に、なぜこれほどまでに多くの戦争や混乱がもたらされてきたのでしょうか。国の常識と国の常識が、そして民族の常識と民族の常識が、いとも簡単に反目し合っているではありませんか。それどころか、同じ常識をもつ国や民族の中ですら、混乱は常に発生しているではありませんか。そしてその戦いや混乱を推し進め、世の中を混沌におとしいれているのが、本当の自分を離れたところからきている強固な信念である場合がほとんどなのです。聖戦の元になされる宗教戦争などはその顕著な例です。

 ある国のイデオロギーや民族の信仰が、同じように他国や他民族の常識とはならないということなのです。それと同じように人の生き方も常識も、人によって異なるのは当たり前のことなのです。問題が起きるのは、私の国の常識を、私の民族の信仰を、私の生き方を、唯一普遍の常識として人に押し付け、人それぞれの自由な発想と生き方を認めないところにあるのです。
 そして世間では当たり前のことである常識と言われているもののほとんどが、実は自分を離れたところから発生してきていた、ということにお気づきでしょうか。物心ついた頃には既に生き方の枠組みとして設定されていた、ということにお気づきでしょうか。
 自分の人生は自分のものです。人は常識に操られて生きるものではありません。
 現代の常識から解き放れることなしに、心のふるさとにアクセスし、真の自分を発見することなどできないのです。

 例えば(詳しくは本文に譲りますが)、現代の常識のひとつに「競争原理」があります。競争原理というのは「人も社会も自由に競い合ってこそエネルギッシュに生きられ、成長する」という見識と言えます。より発展するには自由な競争が不可欠だ、という見識と言えましょう。
 このように私たちの社会生活は他と自分を比較し、他と争うことが常識とされているように見受けられます。多くの人は互いが競い合うことで人も社会も成長すると思っています。
「リベンジ(復讐)」という言葉がもてはやされる今日は、その中で最後に残った者が人生の勝利者であるかのように規定されています。そして大人たちは、人に競り勝つこと、一番になることの大切さを子供の心に教え込んでいます。
 競争原理というこの現代の常識は、ほとんど疑われることなく野放しであり、放縦(ほうじゅう)な自由を謳歌しています。

 確かに、人間が生きるには何らかのエネルギー源が必要です。そのこと自体は正しいのですが、それを競争心から吸い上げるのが一番であるとする考え方は、余りにも人間の本質とエネルギーの本質を正しく見据えていません。これこそが「既成概念」なのです。

 実は競争原理だけではなくて、議会制民主主義も、貨幣制度も、義務教育という常識も、新しい地球にたどり着く過程で経験する、ひとつの秩序体系にしか過ぎないのです。
 既成概念を捨てるということは、これほどの大胆な意識転換にも抵抗を示さずに、すべての枠から解き放れ真理を探求しようという純粋な心が必要となるのです。
 果たしてどれだけの人が今後、ユートピアとして間もなく訪れようとしている新しい地球に向け、これまでの世の常識を白紙に戻し、本当の自分を取り戻す中で、理屈抜きに真の平和の秩序体系に到達することができるのでしょうか。

 いま一般的に否定されている既成概念のみではなくて、競争社会や議会制民主主義といった聖域とすら思われている常識にこだわらないということは・・・ 大変な作業です。自立心をもって、心から生まれ変わる決断をしない限りはなかなかむずかしいかも知れません。
 真理を探究して、仮に自分の中でそれを理解しても、それを今の地球社会の中で実践することは物理的にも精神的にも莫大なエネルギーを消費しなければならないからです。それぐらい世の常識の壁は厚いのです。

「何かこの世は変だ」「何だか分からないが、この世の秩序に添って生きることが自分には馴染めない」……と感じ、「よし、それでは思い切って自分を表現してみるか」と行動すると、現代では常に社会を敵にしなければならないような辛さが自分に返ってきてしまうものです。たとえ今はまだマイノリティとはいえ、そのように感じて生きている人が増えてきています。
 この本を手に取ったあなたも、その中のひとりなのかも知れません。これは本人にとっては辛いことでも、そのような人がいるということは、地球にとっては朗報なのです。
 そう、安心してください。この世の秩序に合わなくて、本当の自分が住む心のふるさとにアクセスし、生きようと努力する中で苦しむ自分を、たとえあなたが不幸と思っていても、本当は誰よりも幸せ者である可能性が高いのです。その理由は既にあなた自身のふるさとが知っているのです。そのことをこの書を読み進むに従ってきっと思い出していただけることでしょう。

 この書は、こういったいままでの既成概念を「何か変だな」と感じ、心の壁を乗り越えようとしている方々に手に取っていただくことを願いつつ、新しい地球での生き方を探り、苦しみのエネルギーを前向きのエネルギーへと転嫁することのできる意識転換の一助となることを意図したものです。

 ここで例えた競争原理などの既成概念も他者と自分を比較することで成り立つエネルギーの使い方なので、それは常に他者を気にしながら生きるということになり、新しい地球での基本的な生き方である、あるがままの自分を生きることへの大きな障害となるのです。
 そしてあらゆる常識の呪縛から解き放れないと、人は本当の自分の道をまっすぐに歩くことができないのです。

 ここ数年、世の中は本当に大きな変化を見せてきました。そして今後数年の間にもっともっと大きな変化を私たちは体験することになるでしょう。そこには当然、大きな産みの苦しみが伴うことも視野に入れておかねばならないのです。

 今、時が近づいてきています。すぐ近くまで。そして今、人類はその時に備えなければなりません。私たちが役割を演じている地球という舞台それ自体が、競争のない神聖な舞台へと変わりつつあるからです。

 急速に神聖な舞台へと変化する地球の中、神聖な舞台で演じられる役者は神の意思をもつ高次の自分とつながった、物事にこだわらない神聖な心のもち主でなければなりません。
 その時に備えるのは、進んだ科学や軍備ではありません。幸福の法制度を作りだすことでもなければ、そのための知識でもありません。備えるのは自分の周りにあるものではないのです。それは自分の中にある心、人類一人ひとりの心なのです。私たちの心をその時の次にくる新しい地球に対応できる叡智ある心、それにふさわしい新しい心へと生まれ変えていかなければならないのです。

 この舞台で私たちが役割を演じるためには、我(が)を捨てて、私たちの心のふるさとである真の吾(われ)の声に従う勇気をもつことが必要なのです。それは、私たちが良心と呼んできたエネルギーの源であるかのように思えます。心を洗い、謙虚で純粋な心を造ることによってそれは可能となるでしょう。
 たとえ一瞬であるにせよ、本当の自分が誰なのかをそのとき私たちは理解し、本当の自分を体験することができるのです。
 そして自分の中の光に嘘をつかずに忠実であれば、明日への不安も、昨日の後悔も必要なくなるのです。そのとき私たちには今しかなくなるからです。そのとき私たちはすべての恐れを克服し、真の自分をエネルギッシュに歩むことができるのです。
 今を生きている瞬間こそが、私たちが私たちの神と直接つながる瞬間なのです。それは一瞬です。その一瞬一瞬の連続の中に常に新しいものとして真理は私たちの心に現れてくるのです。

 私たちは今、気づくと気づかないとにかかわらず、人類が長年に亘って作り出してきた競争意識や虚栄心などに代表される「自分以外に目をやる生き方」から、「真の自分を探し出し、真の自分を生きる旅」に向かっています。
 地球という、生命の本源から観ればバーチャル・リアリティの世界での調和も思いやりも、仮面を捨て、真の自分を生きることによって初めて実現するのです。

 この書は、私が「宇宙の理」という光の子の集う雑誌に十年間にわたって毎月綴ってきたものの中から一部を選択し、リライトし、新たに多くを書き加えたものです。

 皆様の勇気ある旅の一助となることを願いつつ、今、この書を手にされた光の子に捧げます。